十三 アレクセイ・ラビシャン

1/1
28人が本棚に入れています
本棚に追加
/26ページ

十三 アレクセイ・ラビシャン

 二〇五六年、八月十八日、金曜。七時。  出勤前のアレクセイ・ラビシャンは上海北地区郊外にある自宅でオイラー・ホイヘンスからの連絡を受けた。 「急ですまないが、明日、早急に本部に来てくれ。バンコク空港へ車を行かせる。深刻にならなくていいよ。君にお礼したいだけだ。到着時刻を知らせてくれ」  ディスプレイのホイヘンスは笑っている。  翌日、八月十九日、土曜、早朝。  上海は雨だった。予報はバンコクも雨である。ラビシャンはホイヘンスに指定された便で上海空港を発った。  バンコク空港に着いたラビシャンは、迎えに来た優性保護財団の車で財団本部に着いた。警備の女に案内されて総裁執務室に通された。  ホイヘンスはデスクから立ち上がって、ラビシャンに親しく挨拶した。ソファーを勧めて本人も座った。 「君の協力ですばらしい成果が得られた。本題の前に見てくれたまえ。下ろしてくれ」  執務室の外部隔壁が上下左右四重にスライドして、執務室を外部から完全に遮断した。執務室は高速で降下し停止した。  外部隔壁がスライドしてドアが開いた。目の前に地下研究所が拡がっている。 「ここは外部の影響を受けないよう、ローラを保存した古生物研究所の地下保存庫と同じ構造になっている・・・」  ホイヘンスはラビシャンとともに部屋を出た。背後で執務室のドアが閉じた。  ホイヘンスは待機している無人の電動車に乗りこんだ。 「保存庫へ行ってくれ」  電動車は広大な研究所の一角に二人を運び、その場で待機状態になった。  ホイヘンスはラビシャンを連れて電動車を降りた。二人は、台座に横向きに置かれた二つの保存培養カプセルの前に立った。  カプセル内の大隅教授と宏治を見て、ラビシャンは愕然とした。 「眠っているだけだ。妻たちと愛し合う夢を見ている」  二人の股間の局部は怒張し、取り付けられた採取装置に精液が流れている。  なんてことだ・・・。移植臓器を培養するホイヘンスの考えに賛同できたから、ローラのエネルギー波を説明した。二人に協力してもらうだけで、危害を加えないと言ったのに宏治を死なせた・・・。宏治がローラのエネルギー波の影響で再生復活すると、今度は二人を拉致してこんな事をするなんて・・・。すべて私の責任だ・・・。  ラビシャンは頭を抱えたい気持ちだったが、ホイヘンスの前ではそれもできない。 「二人のゲノムDNAとオルガネラDNAは、テロメラーゼが分泌されてテロメアが増えている。ほとんど初期状態に近い。エクソンにも変化が現れて、未分化細胞も増えている。  二人から永遠の生命を得られる可能性がある。二人の思考と記憶を探査すれば、娘が話した『テロメアは相手を選ぶ』が何を意味するかわかる。それまで二人に反抗的態度を取られては困るのだよ。協力が済んだらこれまでの記憶を消去して開放するよ。  ローラを発見して以来、長寿と若さの謎を解こうとしてきた君なら理解してくれだろう。  さあ、戻ろう」  うな垂れたラビシャンを連れて、ホイヘンスは待機した電動車に乗った。 「彼らの日常はどうなるんだ?」  帝都大学に勤務する二人を拉致したのだ。大事件になる・・・。  ラビシャンはそう思った。 「我々の動きを知られては困るから、周囲に気づかれぬように四人の身代りを派遣した。問題ないよ」  ホイヘンスは平然としている。 「妻たちも拉致したのか?」  ラビシャンは不安になった。 「まだだ」 「どこに居る?」 「行方を捜してる。彼女たちに協力してもらえばここまでしなくて済む・・・」 「そうか・・・」  ラビシャンは、妻たちが逃れた事が暗闇に射す一筋の光に思えた。そして、ホイヘンスが大隅と宏治の妻たちを盗聴していた事を思い出した。  ホイヘンスは簡単に妻たちを見逃す男ではない。何か考えがあって妻たちを自由にさせている・・・。そうかトーマスだ。彼はDNAの分子記憶についてモーリン・アルセンに訊くと言っていた。二人を拉致する気だ・・・。二人も行方不明か?  電動車が執務室の前に停止して執務室のドアが開いた。二人が執務室に入るとドアが閉じて、外部隔壁が上下左右四重にスライドして執務室を覆った。 「座りたまえ」  ホイヘンスはラビシャンをソファーに座らせて、自分も座った。 「上へ戻ってくれ・・・」  執務室は高速で上昇した。 「アンドレは、ローラの原形復帰の件で私に賛同してくれた数少ない理事の一人だ。  君の貢献とアンドレの協力に対して、私はアンドレを、アジア連邦考古古生物学会の連邦会長と、連邦統合考古古生物学会の統合会長に推すつもりだ。  その後はアジア連邦議員。次はアジア連邦議長だ。つまり統合議員にだ。  ただし、本人が望めばの話だがね」  ホイヘンスの頬に笑みが浮かんでいる。  アレクセイ・ラビシャンの息子・アンドレは、アジア古生物学会の理事である。  連邦議員は連邦政府議会議員、連邦議長は連邦政府議会議長の略称であり、統合議員(地球国家連邦共和国統合政府議会議員)は各連邦の連邦議員と連邦議長で構成される。そして、各連邦の連邦議長が、統合評議会(地球国家連邦共和国統合政府議会対策評議会)の統合評議委員(地球国家連邦共和国統合政府議会対策評議会評議委員)を構成する。  ラビシャンに疑問が湧いた。 「考古学学会と古生物学学会が一つになるのかね?」 「今月の統合評議会でそのように決まったから、統合議会でもそのよう決まるよ。  アジア連邦考古古生物学会の連邦会長と、地球国家連邦共和国統合考古古生物学会の統合会長の内定は、次の統合評議会で決める予定だ。あとはアンドレしだいだ。  それとも、君が連邦会長と統合会長に、そして連邦議員と連邦議長になる気があるかね?あればそうするよ。そうなれば君自身がもっと若くあらねばならないが・・・」  ホイヘンスの頬から笑みが消えない。  執務室が停止した。 「次の統合評議会はいつかね?」  ラビシャンは即決を避けたかったが、そうはゆかない雰囲気だ。 「今月の統合議会後だから一ヶ月先だ。その後は来月の統合議会後だ」 「よかろう。ぜひアンドレをそうしてくれ」 「承知した。空港まで送るよ。それでは」  ホイヘンスはソファーから立ちあがって手を差し延べた。交渉成立と言いたいのだ。  ラビシャンはホイヘンスと握手した。四十九歳のホイヘンスの手は若者のようだった。
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!