Eの改造

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Eの改造

今度の仕事は事務職。 期間は3ヶ月。 さて、職場はどんな感じかな。 担当部署での朝礼で、課長がよく通る声で私を紹介する。 「今日から配属になった川村景子さんだ。3ヶ月だけだが、みんな色々教えてあげて」 「川村です。今日からよろしくお願いします」 月並だけど一発目のあいさつというのは、やっぱり大事だと思う。明るい表情と、聞き取りやすい声。これだけでも意識すれば、直後のなじみ具合が格段に違うものだ。 あちらこちらから明るい声で、よろしく、と声が返ってくる。まずは良し。 「仕事はエリちゃんから教えてもらってね」 エリちゃん? 課長が指した方向を見る。 腰まであるストレートヘアー。 目鼻立ちが整って華やかな顔立ちの……三十代後半か四十いってるかくらいの、結構な美人さん。 「中島江梨子です……」 声ちっちゃ! 「じゃあエリちゃん、川村さんのことよろしくね」 「はい……」 一日観察しただけで、エリさんが少々浮いた存在であることは容易に読み取れた。 「あれ? エリちゃんさっきまでいたよね。どこに行った?」 課長が騒いでいる。 「あの、技術部に行くと言ってました」 ――すっごい小さい声でね。 何か残念な人なのよね、エリさん。もったいない。せっかく美人なのに。あの小声では仕事を教わるのも苦労する。 「何だかなー。みんなにも聞こえるようにもっと大きい声で言ってけばいいのになあ!」 課長は逆に少々お声が高いようですが。 本人がいないところで大きな口を叩いたところで、いい方向に変わるわけがない。上がそんな風では、下の人間にも影響が出る。 定時後も同じ光景の繰り返し。 「何だ、エリちゃんはもう帰ったのか?」 課長がホワイトボードの一点を見てぼやいた。 ホワイトボードには職員名がズラズラと並び、エリさんのところには「退社」の印である黒丸のマグネットが置いてある。 「黙って帰っちゃうんだからなー」 いえ、「お先します」と言ってましたよ課長。すっごい小さい声で。 この部署、一見すると雰囲気は良さそうなんだけどなあ。たった三ヶ月とはいえ、私がここで仕事をする上で、この悪循環は非常に面倒臭い。 挟まれた私が苦労するに決まってる。 帰り支度をしている私に、前の席の残業中の女性――菅原さんが振り向いた。 「エリさんって……ねえ? 美人は美人なんだけど。『美人だから』っていうか……ねえ?」 ねえ、じゃねえ。 同意を求めるな。 この人は貴重な昼休み中にもこうやって愚痴ばかり言っていた。仕事の愚痴、職場の愚痴、同僚の愚痴。こういう女性はどこの会社にもいる。 逆に仕事が好きなんじゃないかと言いたくなる。 こういう愚痴にうっかり「そうなんですか」などと安易にうなずいてはいけない。 勝手に尾ひれをつけられ、「川村さんも言ってたわよ」とデマを流されたことがある。 「でもエリさん、すごく仕事ができる人だなって思いました」 肯定も否定もせず、中和に努める。 それに「仕事ができる」と思ったのは本当だ。何の質問を投げても全部打ち返してくる。 仕事ができるから、周りの人間が当てにする。 エリさんだけ下の名前で呼ばれているのは、多分そういうこと。 親しみを持ったふうに、媚びている。 当てにするから、いなくなると騒ぎ立てる。 良くも悪くも、エリさんは目立ってしまうのだ。 それに「美人だから」か、同性に好かれてはいない。同性に好かれてはいないエリさんだが、敵がいるわけでもなさそうだ。 例えば誰それの彼氏をエリさんが取ったとか、そういう決定的な話はない。 それなら、何とかなるかも知れない。 「ねえねえ、川村さんはずっとこういう短期の仕事ばっかりやってるの? まだ二十代だよね?」 短期長期に年齢は関係あるのか。 「前は正社員やってたこともありましたよ」 「そうなんだー。何で辞めたの? 不景気だから? 人間関係? あ、それとも健康上の理由とか?」 会ったばかりで人の過去を根掘り葉掘り聞くな。 「まあ、いろいろですよ」 正解は全部だ。 転職しようかと思っていたが、不景気だからと辞めずにダラダラ会社にしがみついていたら、人間関係の泥沼にはまって、血を吐いた。 胃に穴が空いていた。 以来、風通しは胃ではなく、私の心にこそ必要であると肝に銘じた。 それを踏まえて、今はあえて短期の仕事ばかりをハシゴしている。たとえ環境が悪くても、ほんの数ヶ月ガマンすればニッコリ笑ってトンズラできるから。 しかしいつどこで誰と再会するかわからないので、決してもめてはいけない。 もめてはいけないが、かといって黙って言いなりになるのも良くない。 だから変えなければならない。 この環境を。 エリさんを。 すべては私が健やかであるために。
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