おりこうカード

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おりこうカード

引越しの準備をしていたら、ハガキサイズのカードを見つけた。 カードいっぱいのマス目には、花丸のスタンプがずらりと並んでいる。ラジオ体操のカード……とも違う。 ひっくり返すと、ひらがなで書かれた俺の名前と、「おりこうカード」というタイトルが目に飛び込んできた。 記憶の湖面に、かすかな波紋が広がった。 ひらがなで書かれた「さくらぐみ」―― そうだ、これはたしか保育園の年長のときに使っていたカードだ。 おりこうカード――その名の通り、おりこうさんなことをすると花丸スタンプをついてもらえるというもの。子供の頃はこんなものが嬉しくて、毎日おりこうな言動に励んだものだ。 友達におもちゃを貸すとか、泣いている年下の園児を慰めてあげるとか、そんな些細な善行で花丸はもらえた。 あるいはケンカをして自分に非がある場合でも、素直に「ごめんなさい」を言うことでスタンプはもらえた。 「そんなことで何がおりこうだ」 春から社会人。 引越しの準備で、ゴミ箱は山盛り。 そのてっぺんへ、おりこうカードを雑に置く。 荷造りを再開すると、今までテキパキとこなしていたはずが、だんだんと手が止まる。 いつのまにか、先日母親とした会話を思い出していた。 俺はこの家を出る! 就職先もアパートも決めた。 もう社会人になるんだからほっとけよ! 干渉すんな! ――我ながら反抗期まっさかりだと思った。 女手ひとつで俺を育て、大学まで行かせてくれた母親に対してひどい言い草だったと、自分でもわかっている。 外面はいい。学校でもバイト先でも温厚な人だとよく言われる。なのにどうして、一番近い身内にはああいう態度しかできないのか。 そういうところが父親にそっくりだと、以前母親に言われた。 でももう、俺は家を出る。 気楽な一人暮らしだ。イライラしたり怒鳴ったりするのも、これで終わりだ。 カサリ、と軽い音がした。 ゴミの山頂に踏み止まれなかったのか、おりこうカードが床の上に落ちていた。 舌打ちしてカードを拾い上げる。もう一度ゴミ箱にねじ込んでやろうとして、ふと気づいた。 花丸スタンプは、最後の一マスだけ押されていなかった。 「何で一個だけ……?」 記憶の湖面に波紋がまた広がる。 思い出した。 最後のスタンプをもらう前に、引っ越したんだ。 当時は引っ越さなきゃいけない理由が理解できず、なんでなんで、どうしてと泣きわめいた。 ごめんね―― 母親も泣きそうな顔だった。 それからだ。母親と二人きりで暮らすようになったのは。 当時はわからなくても、今ならわかることもある。泣きわめくだけの子供では、もうないのだから。 おりこうカードの最後の一マス――その空白が、俺を追い立てる。 「……ああっ、くそ」 おりこうカードを握りつぶして、台所へ向かった。 めんつゆの匂いが鼻腔をくすぐる。 今日の昼食はうどんかそばか。 俺はうどんの方が好きだ。 台所に入らず、中をのぞく。 あらためて見る母親の背中。思いのほか小さく見えたことに戸惑った。 「母さん、あのさ……」 ゆで上がった麺の湯気の中、母親が振り向いた。 「あのさ、俺……明日行くから」 なるべく声を荒げないように意識する。 「――そう。荷物、もうまとめたの?」 微笑んでいるが、あきらめたような顔にも見える。 「あのさ……」 無意識に拳を握ると、手の中でグシャっと紙のひしゃげる音がした。 こんなときにまでおりこうカード持ってんのかよ俺は。ほんの少し、笑いがこみ上げた。その勢いを借りて言ってしまおう。 「あのさ、今までありがとな」 まともに目を合わせられないが、息をのむ母親の気配は伝わった。 「時々帰ってくるし、成人してるし、社会人になるから、あんまり心配すんなよな」 こんな言葉、今まで言ったことなんてない。 いざ口に出してみると、これまで胸にあったモヤモヤとしたつかえが、不思議なほどスーッと流れ落ちていった。 妙に清々しい。――清々しすぎる。心が軽くなりすぎて、逆に困惑を覚える。 目を見開いていた母親が、ぽっかりと口を開いて言った。 「ばーか」 「――はっ?」 ばか? 今ばかって言ったか? 「親は心配すんのが仕事なんだよ。あー仕送りなんかしなくていいからね。どうせ期待してないし。あんた一人いなくなると私も随分楽になるよ。これからは私も自由に遊んでみようかね」 このクソババア、絶対金送りつけてやる。恩着せがましく送り続けてやる。 「ま、困ったことがあったらいつでも帰ってきな。実家ってのはそういうときのためにあるもんだ。それと! もしも借金するようなことになった場合は、サラ金に手を出す前に必ず親を頼ること! 親のニコニコローンなら無利子・無利息・無期限で貸してやらぁ!」 「そもそも借金なんかしねぇよクソババア」 こんな風に冗談まじりで毒づきあうのは、どれくらいぶりだろう。ちょっと懐かしくて、結構楽しくて、ちょっと、――寂しくなるな。 「ちょうどよかった。お昼できたから座りな」 「おう」 食卓に着くと、目の前に大きな丼が置かれた。さっき香っためんつゆと、ゆでたての麺が、そこに収まっていた。 うどんだ。 しかも俺の好きな太麺。 小口切りにしたネギと、細く刻んだ油揚げが丼を飾る。 つゆを一口すする。 母親は昔から、きちんとダシを取る人だった。 ――文句なしに美味い。 ふふっと母親が笑った。 「何だよ」 「何でもないわよ」 そのわりにニヤニヤ笑ってるじゃないか。 麺に箸をつけたとき、 「あーごめん! 一個忘れてた! ちょっと待ってて」 母親が急に叫んで背を向けた。 まな板の上で何かを切ると、振り向いて 「はいよ」 と丼に何かを乗せた。 「……なると?」 我が家ではあまり食卓に出ないものだ。 「スーパーで安かったのよ。華やかだし、お祝いっぽくていいでしょ?」 そのとき、視界の隅で何かがカサリと音を立てた。食卓に置いた、ひしゃげたおりこうカードだった。 「――そうだな」 真っ白なギザギザの楕円に描かれたピンクの渦巻き模様が、おりこうカードの花丸に見えた。
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