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 悔しい。憎い。だから其れ相応の怒りで奴らを裁く。だがその単純さに立ちはだかる理性的正論のなんたる傲慢なことだろう。  殺しがいけないことだなんて子供にも分かることだが、分かっているのに何故やるのか。それは自らの中での絶対的正義に逆らえる正義が存在しないからだ。微笑ましく兄弟を殺した相手に心から微笑んで「赦す」などと言うなんて、わしにはできない。わしにとって殺されるべき者どもが殺されれば、心の中には悦びしか湧かないのだから。  赦しの心などというものに完全は無い。赦しは自らを冷静にさせ、機能させる為だけの薬に過ぎない。自分の殺した筈の相手に見向きもせずに、罪を知らず過ごす事こそ最大の罪だとしたならば。そして、もしも自身の心と戦う世間の賢者がそれを理由にして『人の存在が罪であるからこそ、我々はそれを赦さねばならない』と言うならば……。わしは言う。 「人を赦す自分を赦す。だがその時点で人を赦さない人々との対立構造が完成している」結果的に彼らも、自分を赦しているだけのこと。  心は表裏一体だ。  誰しも自分を赦せば他人を赦せず、他人を赦せば自分を赦せない。どちらも赦すは無関心。どちらも赦さないのは、どうしようもない。等しく人間だ。ただ、わしは前者を選んだ人間であるだけのことだ。わしは殺し屋としての自分の存在を、赦している。  そういうわけでわしは、腹の肥えた、権力に飢える飼い犬共を見るたびにぶっ殺してやりたくなるのだ。それは生理的嫌悪感であり、思えば自傷したくもなる。心から敬愛していた兄の死体の、文字通り形骸と変わり果てた胴体の痩せ細り方を、思い出しては目を閉じる日々だ。そして心は理不尽な殺意に満ちている。通りすがりの人々は皆、わしの空想の中で胴体を破裂させていた。
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