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「あの抱きとめ方から、私を察知できなかったなんてねぇ……本当に慌ててたのね。あー、それじゃあ接吻でもしなきゃあ私は切り捨てられてた可能性もなきにしもあらずだ。よかったよかった」  遠回しな、わしの対応力への非難。わしは今度は苛立って、自分への怒りが湧いた挙句思わず見栄を張って、弁明にならない弁明を返した。 「抱きとめ方はか弱い女のものだった……お前のようにいやらしいものではない」 「護りたくなるような可愛げな身体を演出したまでだわ。本気で止めるなら、か弱い女子だろうと正面から敵意を持って押し倒しにかかってくるわよ……そうだったら命は無かったかもね。反省しなさいよ」  当然の如く論破され、わしは頭を抱えたい心地になった。  その後わしは木陰で着替えを済ませた。それから毅然と歩く彼女の後ろをとぼとぼ歩いてついていくだけだった。 「まあ、仕事はお疲れ様。よくやったわ」 「……ああ」  素直に喜べない。しかし彼女の説教のせいではない。まだ喜ぶ時では無いと思っていたからだ。  わしが本当に嗤う時は、国政を揺らがず程の大人物を殺した時……だが、それほどの大きな標的を狙うのは社会や経済的にも大博打であるし、そもそも世間での話題性も高いので殺しの話が舞い込みにくいが。  しかしそのように思っていた矢先のことだった。  一週間かけて戻った、埼玉の秩父村のとある山の、その奥にひっそりと建っている家……そこがユキと俺の、もとい山代(やましろ)家の拠点だった。  帰ってすぐにわしは、ユキの兄である誠一郎に捕まり、仕事の話をされた。 「犬君(いぬくん)。君が望んでいた大きな仕事が舞い込んだぜ」  わしの名は荘太郎だが、誠一郎はわしが一族に入る時に『山代家の鉄砲玉』として扱うと言ったその時から、ずっと犬君と呼んでくる。十年間運よく生き残ってきたが、このあだ名が変わったことは一度もない。五年前に亡くなった彼の父でさえ、途中から荘太郎と呼んでくれたというのに。まあ、慣れてしまったから構わないのだけど。  それにしても、これは大事件なはずなのにわしの心は水たまりのように、いやに落ち着いていた。いいや、わざと落ち着けていたのかもしれない。期待外れだった場合、気持ちが落ち込むのを、この性格の悪い男に見られたくなかったからなのだろう。
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