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通勤の帰り。疲れて目が少しトロンとしてドア口に立っていたひかり。乗車してから二駅の頃、黒っぽいデニムを着た見覚えのある男性が開いたドアから乗車してきたのだ。眠たげだった目が一気に覚めて、ひかりは男性を見た。あの時。耳が聞こえたあの時の男性だった。ずっと見つめるひかりに気づいたのか気づいていないのか、男性は一度咳をすると、ドア口にもたれ掛かるようにしてドア窓から景色を見た。 ひかりは出ない声をかけることも出来ず数分、男性を見つめていたが、やがてガタンガタンという電車の振動に後押しされるようにして、男性の肩をトントンと叩いた。男性はふいとこちらを見て。ひかりは覚えたての手話を話すようにして挨拶をした。 『こんにちは、ちょっと宜しいですか?』 けれど男性は、一瞬しかめるような顔をして、「分からない」と言いながら手を振った。ひかりは慌てて、身につけていた鞄からメモ帳を取り出す。走り書きで、ひかりは書いた。 『この前この電車に乗った時、聞こえないはずのあなたの声が聞こえました』 そうして男性を見たが、男性は特に表情を変えなかった。 『あなたは私に“気にするな”と言いました。知りませんか?』 再び見ると、男性は一瞬目を泳がせて。またすぐに窓の外に目をやった。 『あの‥』
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