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緊張と悲愴が漂う中で重なり合う視線。
「……どこだ?」
「え?……」
「荷物をホテルに運ぶんだろ?送って行く…」
鍵が握られた手を素通りして、彼は私の足元に置かれたキャリーバッグに手を伸ばす。
……送って行く?
想定外の言葉に耳を疑う。
突っ立つ私は悪い夢でも見ている様な目をして、腰を屈める彼の背中を凝視している。
「荷物はこれだけだけじゃ無いだろ?急いで運ばなくていい。いつでもその鍵を使って取りに来ればいいから…」
呆然とする私の顔に目を向けようとはせず、彼はキャリーバッグのハンドルを掴んで自分の方へと引き寄せた。
深い悲しみと悔しさが交錯し、黒い影が心を覆い渦を巻く。
「…ここへは、二度と来ないから」
突き上げてくる感情と悔し涙を堪え、地を這いつくばる様な声を落とす。
そして次の瞬間、彼の口から言葉が放たれる前にバッグを掴んで奪い返した。
「あとの荷物は全て運びだしましたから、ご心配には及びません」
「全て運び出した?…」
眉間にしわを刻む彼。
「…帰るのはホテルじゃありません。引っ越し先が決まりました。…だから、この鍵はもう必要ありませんから」
私は喉の奥から掠れた音を絞り出し、今度は鍵を握っている手を開いて彼に突き出す。
私の手のひらに降り落ちる彼の視線。
行き場を失った小さな鍵が、私の手の中で微かに震えている。
受け取る様子も見せず、ただ石の様な固い表情をして黙りこくる彼。
私はその場でしゃがみ込み、自分の足元にそれを置いた。
「…確かにお返ししましたから」
しゃがみ込んで小さく背中を丸めたまま、鍵を寝かせた冷たいフローリングの上に声を落とす。
「麻弥……」
「……さようなら、先生」
私は再びバッグのハンドルを強く握りしめ、彼を押し退けるようにして玄関の扉を開けた。
そして勢いに任せ彼に背を向け、逃げ出す様にエレベーターに向かって走り出す。
「麻弥っ!」
閉じて行く扉の隙間から、私の名を呼ぶ彼の声が聞こえたような気がした。
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