<シャーロック・ホームズな夫>

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六月三日。気象庁から大雨警報が発表されるほどの悪天候だった。 私が出勤で彼は休み。退社後、気をつけて帰宅するようにとチャットアプリを通じて連絡がきていた。短い文章のあとに‘誰だって経験から学ぶものなんだ’と、得意げな顔でパイプをくわえたホームズのスタンプが添えられている。 名言を略したものらしいが、これを選んだのに理由がないのは承知していた。もし‘ホームズと私のどっちが大事なのよ。もう無理’などと言えば、彼もなにかを学ぶのだろうか。一瞬その光景を想像してみたが、すぐに愚考だと否定した。面倒な女と思われるに決まっているからだ。 彼氏に車で迎えにきてもらっている同僚に羨ましいと視線を送りながら、重い足取りで帰路へとついた。きっと彼は私が大雨に肩を濡らしている今も、ホームズの世界に浸っている。架空の人物に負けた気がして目頭が熱くなったが、ひとつ大きな息を吐いて堪えた。 帰宅後、玄関のドアを開けた先には暗闇が広がっていた。出掛けているのだろうか。しかし鍵はかけられていなかった。恐る恐る靴を脱いで「ただいま、智也いるの?」と暗闇の向こうに問いかけた直後だった。 不意にリビングの電気がつけられ、クラッカーの乾いた音が鼓膜に響いた。唖然と立ち尽くす私の視界の先では、普段通りにホームズの格好をした彼が満面の笑みを浮かべている。 「おかえり、驚いた?」 「ただいま、そりゃ驚くでしょ。どうしたの?」 「じゃサプライズは成功したわけだ。誕生日おめでとう」 彼はニタニタしながらクラッカーをゴミ箱へと捨てると、自分の部屋へと戻った。そして間もなくして半袖ティシャツ姿でリビングに戻ってきた。そして「今日の夕食は僕がつくるから」と、冷蔵庫を開いた。私は自分のおかれた状況に、ただただ呆然としていた。 「どうしたの?固まっちゃってさ」 「いや、誕生日覚えててくれたんだ?」 「え、当然でしょ。ほら、できたら呼ぶから休んでなよ」 玉ねぎを刻む彼の背中に気の抜けた返事をし、スーツのジャケットを脱ぎながら自分の部屋へと戻った。タオルで濡れた肩部分を叩きながら、違和感を拭えずにいた。キッチンからは、包丁がまな板をたたく音と鼻歌が聞こえてきている。
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