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リビングの小さな丸テーブル横に並べられた座布団に腰をおろすと、彼は小さく溜息をついた。なにをそんなに恐れているのか、視線は宙をいったりきたりしている。
「で、どうかな?」
「どうかなって、なにが?」
「僕のこと気持ち悪いとか、オタクとか思ってない?」
ああ、なるほど。ようやく理解した。
「ならないよ。熱中できることがあるのは素敵なことだし。嫌いになるどころか、ますます好きになっちゃった。智也って可愛いとこもあるんだね」
自分の嗜好を完全に肯定され気が緩んだのか、大きく息を吐くと「良かった」と目の端にシワをつくりながら笑った。私の大好きな笑顔だ。
「大事な話ってこれだけ?」
「あ、いや、それはまた別にあるんだけど」
その言葉を最後に彼は黙り込んでしまった。下唇を噛み締め、視線を伏せている。その緊張した様子は、背広を格好良く着こなしている仕事時の彼からは想像しがたい光景だった。
正方形を模した壁掛時計の秒針が、カチカチと音をたてている。目を凝らしてみると外枠の天辺には、パイプを口にくわえたホームズの横顔らしきシルエットが飾りつけられている。ホームズに対する愛着心に関心していると、彼は「よし」と小さき呟き、話を切り出した。
「……良かったら僕のアイリーン・アドラーになってくれませんか?」
ホームズ、ワトソンときて、また新たな人物が登場した。私は言葉に詰まってしまい、思わず俯いた。察するに彼なりの告白なのだろうか。
「あ、分かんないよね?アイリーン・アドラーっていうのはホームズにとって大事な存在にあたる人で、恋人ってわけじゃないんだけど。でも僕は恵美と恋人関係になりたいわけで、そしたら今の告白の仕方は変だよね。ごめん、つまりなにが言いたいかっていうと、僕と付き合ってください」
間もなくして無言で小さく頷いた。即答しなかった私をみて不安に思ったのか、彼は「なんかごめんね」と狼狽えた様子で繰り返し謝っていた。
もちろん私は彼が好きだし、告白されて素直に嬉しかった。ただ気持ちを伝える重要な場面でさえ、ホームズ関連のキャラクターが登場したので、驚いてしまっただけだった。
そう伝えると苦笑いをしながら再度あやまってきたが、数分もしないうちに恋人関係になった事実を子供のように喜んでいた。その時わたしは、この人を好きになって良かったと実感したのだった。
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