<シャーロック・ホームズな夫>

16/67
前へ
/466ページ
次へ
不意をつかれ思考停止している私をよそに指輪を手にとると、右手をだすように要求した。互いの指先が微かに震えている光景に口元が緩んでしまった。すでに涙はとまっていた。 「今まで自己中心でごめん。これからは気をつけるから、よかったら結婚してください」 まだ返事をしていないというのに、私の右手の薬指に指輪をはめた。サイズは丁度よく、彼が「良かった」と安堵の笑みを浮かべながら呟いた。 これでプロポーズを断られたら、どうする気なのだろうか。仕事を完璧にこなす彼を慕っている部下は多い。真面目で几帳面、しかし今のように時おりみせる天然さも嫌いではなかった。むしろ大好きだ。心配げな表情で私をみつめる彼に微笑みかけ「よろしくね」と、思いっきり抱きついた。 それからの展開は、まるで流れ作業のように早かった。プロポーズされた翌日、彼が午前中だけ出勤だったので終わるを待ち、私の実家へと挨拶をするために車を走らせた。 同棲をするため実家をでた際に彼氏の存在は話していたが、年齢や会社の上司という情報は(もちろん重度のホームズ好きというのも)教えていなかった。急遽決まった彼氏との対面。しかも結婚の挨拶。普段は寡黙であまり感情を表にださない父も、これには「まいったな」と苦笑いを浮かべていた。 両親と話しているあいだ、彼は思案顔だった。緊張感に支配されており、しどろもどろの状態。その場の空気感になんだか笑いが込み上げてきて、私と母だけがリラックスしていたのを覚えている。 途中、会話が途切れてしまい沈黙が続いた。父は気まずそうに煙草の煙を吐き、彼もまた困った表情で、視線を右往左往させている。見兼ねた私が「そういえば彼はシャーロック・ホームズが好きでね、彼自身も名探偵なんだよ。私の指のサイズを知らないのに、ピッタリな指輪を用意してくれたんだから」と意地悪をしてみた。 「ほう、智也君はホームズが好きなのか。俺はポワロが好きだがな」と父が腕を組むと、すかさず隣に座っている母が「あなたの好みなんて訊いてないの。小説なんて滅多に読まないくせに見栄をはらないでくださいよ。ごめんなさいね、この人ったら知ってるキャラクターを言っただけなのよ。だから気にしないでちょうだいね。でも名探偵だなんて、智也さんは凄いのね」と、慌てて二本目の煙草に火をつけはじめる父の太ももを叩いた。
/466ページ

最初のコメントを投稿しよう!

345人が本棚に入れています
本棚に追加