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「僕、仕事辞めてきたから」
夕食の買い物から帰宅した私に、彼が前触れなくいった一言。
「え、なんで?意味が分からないんだけど」
「あ、もちろん一ヶ月前に社長と話をしたよ?それで今日が最終日だったんだよね。随分と引き止められたけど、最終的には認めてくれて助かったよ。きっと僕の熱意が伝わったんだな」
愕然と立ち尽くす私とは対処的に、飄々とした口調の彼。
「なんで?私なにも聞いてないけど。仕事やめてどうするの?なんで辞めたの?これからどうするつもり?」
矢継ぎ早にされる質問を気にもとめない様子で、本棚から一冊の小説を手に取ると、鼻歌交じりで読みはじめた。
「ちょっとふざけないでよ」
思わず怒声をあげた。彼に詰め寄り、持っていた小説を払い落とす。直後、彼の視線が床に落ちた。そして、すぐ後に大きく見開かれた目が向けられた。
彼のように三十歳を越えていては、再就職は難しくなってしまう。しばらく生活に困らないほどの預金はある。しかし‘しばらく’だ。私の給与だけでは厳しいのが現実。それは彼も理解しているはずなのに、なんの相談もせずに決めてしまったのだ。
もしかしたら考えがあったのかもしれないと思い、 怒りを押し殺しながら返答を待った。しかし彼は落ちた小説を本棚へ戻すと、笑みを浮かべた。
「僕はね、シャーロック・ホームズなんだ」
そして実に穏やかな表情と優しい口調で、 理解の範疇を超えた内容を言い切ったのだった。私は目眩にも似た感覚に襲われた。
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