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緩井は無我夢中でスウェットのポケットを叩いていた。時刻は早朝の六時。カーテンの隙間からは朝陽が射し込み、雀の囀りがきこえてくる。
分かりやすく爽やかな朝に息を切らしながらポケットを叩き続ける二十七歳の男。客観的に見れば異質なのは明らかだが、いまの緩井に気を回す余裕などなかった。
あと一時間も経てば家主である里紗が仕事先から帰宅する。それまでにポケット内の小銭を五万円にまで増やさなければならないのだ。夜勤明けはいつにも増して機嫌が悪いので尚更だ。
「……増えろ、増えろ」
愚行なのは理解していた。こんなことで増えるのならば世の中は億万長者で溢れ、勤労に励む者などいなくなるだろう。しかし諦めるわけにはいかなかった。
ポケットのなかにはビスケットがひとつ。
ポケットをたたくとビスケットはふたつ。
もひとつたたくとビスケットはみっつ。
たたいてみるたびビスケットはふえる。
どこかで耳にしたことのある、今の緩井にとっては希望に満ち溢れた歌。これから訪れるであろう恐怖を回避するには、それを信じるほかなかった。
「ビスケットが増えるなら小銭だって増えるはず。増えなきゃ困る、増えてくれ」
「いや、さすがに増えないでしょ」
緩井の哀願の声に混じり、不意に背後から声がした。
「……あ、里紗さんおはようございます」
反射的に振り返ると、怪訝な顔で緩井を見つめる里紗の姿があった。いつの間にか帰宅していたようだ。どれだけ自分が夢中だったかを思い知らされ、いつもの時間が始まると思うと溜息をつかずにはいられなかった。
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