345人が本棚に入れています
本棚に追加
「……なんかごめんな」
静まり返った部屋で最初に口をひらいたのは緩井だった。和也は“気にすんな。頑張れよ”と笑みを浮かべ、部屋をあとにした。
途端に静まり返った自室で、寝癖がついたままの後頭部を掻きながら座布団の上に腰をおろす。居候を始めたときに購入しもので内部のクッション部分が潰れており、床に座っているのと何ら変わらなくなってしまった。いっそうのこと革張りのリクライニング機能つきの座椅子でも買ってしまおうかなどど、無意味な欲望を抱きながらマウスを適当に動かす。
スリープ状態で暗くなっていたパソコンの液晶画面が明るくなる。欠伸をしながらメールボックスを開くと“新着3件”と表示されていた。そのなかの1件の件名に緩井は生唾を飲み込んだ。
【助けてください】
ついにきたと確信をした。この仕事を始めて一年。今までの依頼といえば脱走したペットの捜索や化物退治(無論そのような者はいなかった)仕事を選ぶつもりは毛頭ない。しかし感情屋という普通ではない仕事に就いている以上、面白そうな仕事をしたいと考えるのは至極当然のことだ。胡座から正座へと体勢を変えて瞑目する。
子供が誘拐され、多額の身代金を要求されている。殺人現場を目撃してしまい、その犯人に追われている。もうひとりの自分が人を殺してしまった――
たった七文字の件名から滔々と想像が膨らんでいく。きっと今の自分は、思春期の男子が初めてアダルトな世界に足を踏み込んだような顔をしているに違いない。しかしあくまで妄想であり、そういったものは映画やドラマの世界での話し。
ひとつ鼻で大きく息をして、待望のメール内容を確認した。そして目を疑った。同時に淡い期待が裏切られたことに溜息をつかずにはいられなかった。
「……夫がシャーロック・ホームズってなんだよ。大丈夫なのか、この国は」
玄関先ではアルバイトに向かう和也と、それを見送る里紗との話し声が聞こえてくる。どうやら緩井を庇った和也に文句を言っているようだった。心のなかで和也に謝罪をし、意識を依頼内容へと戻した。
最初のコメントを投稿しよう!