<シャーロック・ホームズな夫>

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“これからなにを見ても嫌いにならないでくれたら嬉しい”と、何度も念押しをしながらスリッパを用意してくれた。未だに状況を把握しきれていなかったが、シャーロック・ホームズが小説の登場人物であることだけは理解できていた。 パタパタとスリッパを鳴らしながら案内されたリビングへと向かう。まず視界に飛び込んできたのは天井に届きそうなほどの大きな本棚だった。そこに隙間なく小説が並べられているのだ。 「これ全部シャーロック・ホームズが登場するの?凄いね。驚いたけど、これで嫌われると思ったの?読書が趣味って素敵だと思うよ」 私の言葉に偽りはなかった。例えばギャンブルが趣味と言われたら考えてしまうが、健全な趣味であればなにも問題ない。彼は“よかった”と微笑むと、本棚の前で両手を広げた。 「ここにはホームズだけじゃなく、ブラン神父や刑事コロンボ。それにポワロやフィリップ・マーロウだっている。そのなかで一番好きなのがホームズなんだ」 無数の小説の存在を肯定されたのが嬉しかったのか、矢継ぎ早に名探偵と思われる数々のキャラクター名を口にした。 「でも大事な話しってこれのことだったの?」 「いや、実はまだあるんだ……」 “他にもなにかあるの?”と本棚を眺めながら訊くと、すぐ隣から彼の溜息が聞こえてきた。そのまま重い足取りで本棚と向かい合ったところに位置した部屋のドアを開けた。 ゆっくり開けられたドアの向こうにはシングルベッドが置かれていた。どうやら彼の寝室のようだ。白いシーツが綺麗に敷かれており、几帳面な彼の性格を表していた。先に部屋に入って電気を点けると、入ってくるように言った。 浮気などの男女関係の修羅場でもないのに重々しい空気が流れており、心臓が早鐘を打つ。生唾を飲み込み、意を決して寝室へと足を踏み入れた。
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