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しばらく黙っていると智樹さんが近づいてきそうだったので、思い切って口を開いた。
「智樹さん、もう無理しなくていいよ。智樹さんの好きなようにしていいよ」
「え?」
しばらく二人とも黙っていた。
これだけで、智樹さんには伝わるに違いない。
結婚しているけど、あたしたちは恋人ではない。
優しくしてくれるけど、それはみんなに対してそうであって、あたしが特別なわけではない。
仕方なく結婚したとはいえ奥さんだから優しい智樹さんはかまってくれるのだ。
あたしなんかとの結婚を受け入れて、とてもやさしくしてくれた智樹さん。
熱心に『気』のこともたくさん教えてくれた。
だけど、家元に言われたからって意に沿わない結婚を続けているのは智樹さんにとってよくないよ。
もう智樹さんにあんな悲しい顔はさせたくない。
「それは菜月のほうだろ」
ふいに智樹さんの声がした。小さく、怒ったような声だ。
意外な言葉になんのことかわからずにいたけど、振り返ることはできない。もう、涙をこらえているのも限界だ。
「がまんしているのは菜月のほうだろ。……俺がそうさせているんだよな。ごめんな、菜月」
なんで謝るの?なんでそんなに優しいの?
ずっと好きだった人がいるくせに。
あたしがその人との仲を引き裂いたというのに。
あたしは背中を向けて黙ったままだった。
こらえようとすると体が震えてしまう。とうとう、涙がぽろぽろと溢れ出てしまった。
胸が苦しい。
息ができない。
あたしは、こんなにも智樹さんのことが好きだった。
智樹さんの隣にいられなくなると考えただけで、立っていることさえ難しくなる。
「おい、菜月?どうした?泣いているのか?」
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