第3話

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3月の朝はまだ寒い。 肌に触れた冷たい空気に首を竦め、部屋を出てエレベーターに乗り込み、マンションを出る。 いつもと同じ行動だけど、今日はエントランスを抜けたところで、不意に植え込みの沈丁花の甘酸っぱい香りが鼻先をかすめた。 その香りは鼻を通り抜け、パーッと頭の中いっぱいに広がっていった。 『…………先輩!』 その香りに引っ張り出されるようにして、すっかり忘れていた遠い思い出がやたらとクリアに再生された。 親友の里奈(リナ)が誰かを呼びとめる声。 卒業式の風景………これは中学の時? そして………手のひらに乗せられた小さなプラスチックの半透明のボタン。 どれも断片的ではっきりとは思い出せない。 記憶のピースは頭の中を駆け巡るのみで、ピタリとは嵌らない。 何か思い出しそうなのにあとちょっとのところで引っかかっている感じがもどかしい。 この沈丁花の甘酸っぱい香りは、中途半端に私の中学の頃の記憶を引き出してくれたようだ。 中途半端過ぎて、逆に気持ち悪いし……。 卒業式と言えば、もう卒業シーズンかぁ。 中3の卒業式に、当時好きだった同じクラスの岩本君から第二ボタンをもらったことはすんなりと思い出せた。 その時に両想いだと発覚したけど、高校はお互い別だったから、友達以上の発展にはならなかったなぁ。 この沈丁花の香りみたいに甘酸っぱい記憶だ。 でも、岩本君からもらった第二ボタンは確かに金ボタンだった。 うちの中学は学ランだったから。 確か、上京と共に持ってきた宝物入れに大切に収めていたはず。 じゃあ、一瞬思い出しかけたあのプラスチックのボタンは一体………? それに里奈のあの切羽詰まったような声。 しかも『先輩』? 最高学年の私たちの卒業式であれば、そこには先輩は存在しないはず。 じゃあ、いつの卒業式だろう………。 なんとなく腑に落ちない気持ちで、白と赤の花弁を一瞥した。
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