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目が霞み、手が動かない。
全身から力が抜けていき、意識が遠のいていく
糸が切れた操りの人形のように地面にへばり付いてるような感覚だけがはっきり残っていてなんだか妙に笑い出したい気分だった。
男は自分の命が今まさに消えていこうとしているのだと理解していた。
腹には大きな穴が開いていて、助かりようもない。
―あぁ、これで終わりか―
心の中で男は呟いた。
痛みはある、死が目前に迫っているのがはっきり理解できる痛みだ。
しかしその痛みさえもどこか心地よいと感じるのは何故だろうか?
死ぬことへの恐怖や迷い、未練は遠い昔に捨て去ったからだ。
男の脳裏に浮かぶのは遠い過去の事だけだった。
幸せで溢れていた幼い頃の思い出がただ浮かんでは消えていた。
惨めに地面に転がる己に向かって冷たい声が浴びせられたのは、そんな時だった。
「馬鹿な男ですね」
黒いコートを身に纏う美しい女が嗤っている。
死に逝く愚か者を嘲るように、それから
遠い昔を懐かしむように女は目を細めた。
「〝約束〟を一番最初に破るのはいつもあなた」
女の声はどこまでも冷たくて刃物のように鋭利で、それでいてその声には哀れみが混じっている。
「私は言いました〝慎重に〟と」
彼女に咎められるのは毎度の事だった。
幼い頃から、彼女に咎められたいが為に何度も悪さを働いた事だってある。
随分と遠い昔のことだが、男は一度だってあの頃を忘れた事はない。
まだ曲がりなりにも人だった頃の彼女は、困ったように表情をコロコロと変えては逃げ回る自分を追いかけ回して怒った。
それがくすぐったくて嬉しくて、今日はどんな悪戯をして怒られようかと毎日そんなどうしようもないことを考えていた日々がただ懐かしい。
「何故、こんな馬鹿な真似をしでかしたのです?」
今はどうだろうか。
彼女から漂う陰気で凶悪なオーラはもう遠い昔の彼女とは似ても似つかない。
人を捨て、己の本来の力を取り戻した彼女の苛烈で冷酷な瞳には自分はどう映っているのだろう。
馬鹿な真似を、と憐れむ彼女の心の内を覗いてみたい気がした。
「ははっ・・・けいそ・・・つ・・・ってか?
・・これ・・・も・・・・しんちょ・・・に・・して・・・けど・・・な」
だが、渾身の力で振り絞った声は掠れて途切れて、なんと弱々しいことか
男にしては高めの声色が、今は弱々しく喉が潰れた雀のようだった。
歌うようなふざけた口調で言葉を紡ぐその口からは大量の血が吐き出される
いつものように軽口を言おうとしても言葉が続かなかった。
だが男は、それで良かった。
死を目前に何の未練もないのは、この己の死が始まりとなるからだ。
死に対する恐怖や迷いを捨て去ったのは
衰退した世界が反撃の狼煙を上げるのに、必要不可欠だったからだ。
裏切り者だと世界に断罪され続けた男は今日この場で英雄と成り上がる。
「言い残す言葉はありますか?」
「 」
最後の言葉を酷く嬉しそうに男は紡いだ。
その顔はどこか満足そうで、得意気で、悪戯が成功したかのような無邪気な幼い少年のそれだった。
「さようなら、ジル。」
これが後に英雄と語り継がれることになる
不撓の裏切り者ヅィルツァイト・ブラーゼンの最期である。
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