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漫才のような会話の応酬が、途絶えた。
夫も恭子もそれぞれに思うところがあるのだろう。
自分の後ろ暗いところを反芻しながら、それでも活路を探している。
――ああ、この顔。あのひとに見せたかったかも。
「ひどい……詐欺だよこんなの」
女が、力なく吐き棄てる。
またしても雄治はぎょっとした目で彼女を見た。
「さんざん長いあいだ騙しやがって。あたしこそ慰謝料請求してやるからな!」
「だ……騙したことなどない! 君から誘ってきたんだぞ?」
あくまで俺は悪くないスタンスを崩さない夫。
助ける気はないが、とりあえず言っておこう。
「恭子さん。なんかいろいろ残念だろうけど、慰謝料は請求される側だからよろしくね。で、この夫まだ欲しい?」
「いるわけないじゃん!」
雄治の口が、空き缶を突っ込めそうなほど開いた。
「だよね。一応訊いてみた」
開きっぱなしの口がぐるりと私のほうを向いた。
「でもさ、正直お互い様だと思うよ。恭子さんだってバツイチなんて言ってないんでしょ?」
風見鶏のように、開いた口がもう一度女のほうを向く。
「な、なんで知ってんだよ!」
「慰謝料二百万円払ったら教えてあげる」
「んな金払えるわけねーだろ!」
机を叩き、女がいきり立つ。
その目が潤んでいるのは単に興奮のせいだけではあるまい。
私は煙草を深く吸い込んだ。
旦那の顔色を伺うことなく味わうニコチンは、なんて美味いんだろう。
「……で、雄治はどうする?」
すっかり夫はハニワのように呆けた顔をしていた。
「はい、私の印鑑貸したげる。どうせならあなたの手で終わらせちゃってよ」
離婚届を彼に握らせ、目の前に判子を差し出す。
魂の抜けた目にみるみる感情が蘇ってきた。
「どうしたの?」
紙を掴んだまま、印鑑を触ろうともしない。
葛藤の末、彼はどちらを選ぶだろう。
全てを失う一路を進むか、プライドを棄てて帰路につくか。
数秒ののち、彼の目にはたった一つの色が浮かんだ。
媚だ。
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