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捺印欄には黒く縁取られた穴が開いている。
ゆらりと細い煙が上がったのは、彼の手首だ。
焦げ臭い匂いが鼻を掠める。
慰謝料のことも忘れて、今度は女が大口を開けた。
「私が今まで愛を尽くしてきたのはね、あんたが中身のある良い男だと思ってたからだよ」
改めて灰皿で煙草をもみ消し、席を立つ。
実用性重視のメリケンサックは、とんだクズ鉄だった。
「だから競馬も借金も介護費用も、好きにすればいいと思えた。私の給料だけで生活が回ってたって、苦にならなかったの」
ぱたぱたと店員が駆けつけ、個室のドアをノックする。
どうせもう去る身だからと、返事もせずにしゃべり続けた。
「だけどこれからも雄治が同じ生活を望むなら、覚悟してよね。私は慈悲の心で離婚しないわけじゃない。子供どころか真心すら望めない男に金をかけるなら、相応の立場ってもんがあるでしょ」
外の店員は何かを察したようだ。
ドアは二度と音を立てることなく、三人の道を閉ざし続けている。
「幸いというか、見た目は嫌いじゃないんだよね。年代ものだから万人受けはしないだろうけど、私の言うとおりに着飾って口を閉じてりゃ惚れ直しそうになるもん。だからあなたを買ったの。あなたはたった今、私に金で買われたのよ」
彼の顔が私を見上げる。
長いあいだ暮らした小屋から連れ出される牛の顔。
乗せられたトラックの行き着く先の、屠畜場を見る顔。
「――これからは、私のアクセサリーとして生きなさいね」
笑顔で彼に判決を下す。
私を見つめる目が色を失い、急速にガラス玉に成り代わった。
結局、パスタひとつ食べることなくレストランの個室を後にする。
雄治はのそりと腰を上げ、おとなしく私についてきた。
「あ……あたしはどうなるの」
ひとり残されそうになった女が慌てて追いすがる。
白い肌に涙を伝わせる姿は、二十分ほど前のか弱い女に戻っていた。
「見逃してよ。派遣社員なの。二百万なんて持ってない」
先ほどの態度とは打って変わっての哀願も、裏事情を知っていれば無意味だ。
「二年くらい前に臨時収入があったはずだよ。もう男に貢いじゃった?」
「……な、なんでそのこと……」
「元々あなたが持つべきお金じゃないでしょ。私が、あるべきところに戻してきてあげる」
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