第1章

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「そんな泣きそうな顔しないで、ほら、おいで」 無理強いはしない。という言葉の意味を汲み取る。 おいで。と言われてなぜか体が香曽我部のそばに歩み寄ってしまう。ダメなのに、体を預けてはいけない相手なのに。心と体が相反していて長谷川は混乱した。 そして助けを求めるように香曽我部の胸にすがりついてしまった。 「やっと捕まえた」 香曽我部がコワレモノを扱うように優しく腕をまわす。 一瞬強張った長谷川の体が、ほうっと息を吐いて弛緩する。緊張している自分を必死に落ち着かせていた。 「怖がらないで。やさしくする。彼の代役でいいから」 長谷川が体から搾り出すような声で言った。 「だ…抱いて…ください」 「徹君」 香曽我部は抱きしめた腕の力を無意識に強めていた。長身の男にぎゅっと力強く抱擁され、長谷川はその懐かしい感覚に酔いしれた。 貴弘――。 心の中で呼んでみる。 馴染み深い、五年も付き合っているのに未だに苗字で呼んでくる恋人の声が、耳の奥で聞こえた気がした。 「シャワーを浴びておいで、バスルームはこっち」 香曽我部に促され、長谷川は脱衣所へと入る、じゃ、とドアを閉められ、知らない空間に一人ぼっちになってしまった。 鏡に映る痩せこけた自分。 ふとグレイの瞳と目が合った。ペンダントトップの瞳はひとつしかないけれど、容易に恋人の双眸を思い出させた。 「貴弘…」 また涙が溢れてきた。 会いたい。恋人に会いたい。あの逞しい腕に抱かれて全てを奪いつくされたい。 長谷川はバスルームを飛び出した。 M美大に行こうと決めたのは、久々に自宅に戻って来たときの部屋の有様を見たからだ。 いつもきっちり片付いていた部屋が、服は脱ぎっぱなし、洗濯物は干しっぱなし、おまけに冷蔵庫はほとんど空で、ちゃんと食生活を送っているようには見えなかった。 もう夜遅くだったがとりあえず迎えに行かなくてはと、何かに駆り立てられるように電車にのった。長谷川さんとすれ違ってしまったら、帰りはタクシーになるだろうが、そんなことはどうでも良かった。 長谷川さんに会いたい。 そしてまた一緒に暮らしたい。 俺に彼が必要なように、彼にも俺が必要なんだとわかったから。 そう思って大学につくと、やはり長谷川さんの部屋だけが明かりがついている。 ホッとため息をついて校舎に近づくと、パッとその明かりが消えた。
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