第1章

9/19
前へ
/19ページ
次へ
二ヵ月後 新宿にある大型画材店。そこで俺はスケッチブックを見るともなく手にとって眺めていた。 長谷川さんの居ない時間を狙って家にスーツや革靴の替えを取りに行きながら、この二ヶ月、カプセルホテル暮らしだ。ビジネスホテルに長期ステイでも良かったが、いつまで続くかわからない別居にあまり金はかけられない。 ガタイの良いのがとりえだったが、こんなときはもっとコンパクトな身体になりたいと、カプセルホテルの寝床に入るたび思った。 自分から帰る気にはまだなれなくて。 週末になると長谷川さんに会えやしないかと画材店に足を運んでいた。なんとも女々しい男だ、俺は。 そろそろ店員さんに顔を覚えられてしまいそうだな、何も買わない客で怪しまれるかもしれない。 そんなことを考えていたら、後ろから聞き覚えのある声がした。 「誰かと思ったらギリシャ彫刻の彼氏か。どうしたの、こんなところで。プレゼント選び? …って顔じゃないね」 後ろに立つ、俺と同じくらいの背丈がある男。 香曽我部だった。長谷川さん曰くプラトニックな想い人。 「どうも…」 「ホントにふたりとも冴えない顔して、喧嘩でもしたの? 」 「ふたり? 」 「長谷川君もこのところすっかり憔悴しちゃって見てらんないよ。どっちが原因かわからないけど」 「アンタが原因だよ」 「…僕? 」 「長谷川さんがアンタの絵のモデルやったときのこと」 「あぁ…あれか。ふふ。あれはね彼の意思じゃないよ、僕が誘ったんだ断れないように言葉で暗示をかけてね。彼はちょっと顔を傾けただけ」 「………長谷川さんのことは本気なのか」 「本気だよ。…こんな絵を描いてしまうくらい」 香曽我部が持っていた袋から白い箱を取り出し開けてみせる。ビニールを外してこちらに向けた。 額に収まったちいさなカンバスの中に、俺の知らない長谷川さんがいた。誰かに微笑みかけている、そのちょっと遠慮しながらも愛情溢れる感じは生徒に対して指導している姿のように見えた。 生徒が制作に行き詰まり、どうしたものかと言うときに、片腕を差し出して今にも指導が始まりそうな、その瞬間。 アイディアと技法を伝えようと可愛い教え子に微笑みかけている。 それがこんな小さな絵から物語のように滲み出てくる。 この男、相変わらずの技量だと思った。そしてどんな思いでこの絵を描いたのかも見て取れる。確かに本気なのだろう。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

172人が本棚に入れています
本棚に追加