1 出逢いの章

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その日。終業時間の15分前――。 私のデスクの内線電話が鳴った。 「はい。宣伝部、相楽です」 『葵先輩。私、あの、受付の香坂です』 「あら、那美ちゃん。どうしたの?うちに来客でも?」 『あ、いえ。あの…』 「なぁに?」 こんな時にも年の功は働くらしい。 「私に何かご用?」 『はい、あの…。お話出来たら、と思いまして…』 「いいわよ。今日は定時に上がるつもりだから。あなたは?」 『はい。私も上がりです』 「じゃあ、一緒に夕食をどう?ちょうど行ってみたいお店があるのよ。ところが、お一人様じゃ行きにくいトコでね。ちょっと付き合ってくれない?」 『あ、はい。喜んで』 じゃあ、20分後に下でね。 そう言って受話器を置いた。 だいたいの予想はついていた。 恐らく90%、いや、200%奴の事だろう。 というのも今日、ランチに行った時、偶然にも聞いてしまったのだ。 受付の那美嬢が、犬塚部長ご推薦のどっかのご子息との見合い話を断った、という話を。そしてその理由として有森省吾の存在がまことしやかに噂されているという事を。 お犬様、もとい、犬塚部長と言えば、各部署に1人ずつ居る部長達のもう1つ上のランクの人で、叩き上げ精神ゆえに仕事も出来る。 また厳しくもあり、歯に衣着せぬ物言いで大の男も涙ぐむ、と言われるほど豪傑な人なのだが、部下達からの信頼はすこぶる厚い。 私自身、幾度となく企画を通して関わってきたが、実に男気のある人だと認識している。 そんな人から勧められた見合い話を「お会いしてお断りするのはもっと失礼ですから」。 そう言って、一度も会わずに断ってしまったという那美嬢にむしろ感心したのだった。
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