1章・赤靴のマリー

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 中学生の頃は知らなかった。いや、見て見ぬ振りをしていたのかもしれない。  坂下千鶴は矮小な人間だ。  高校になってしばらく経った頃、そんなどうしようもない事実に気づかされた。  卑怯で、退屈で、これといった取り柄もなく、お世辞にも褒められた人間ではない。  澪に対して嫌がらせをするようになったのはその頃だった。  御代澪は坂下千鶴より格下の人間だ――そんな風に思っていた。  だからイジメてもいいんだ――そうやって正当化していた。  片親で、貧乏で、根暗で、ろくに友達もいない。  そんな澪を千鶴は見下していた。 「なんかムカつかない?」  最初にそう言いだしたのは千鶴で、澪がいつも身に着けていた古びた腕時計を体育の時間に盗んだのも千鶴自身だった。  焦った様子で探す澪を見て、学校中を探し回る澪をこっそりと眺めて友達と楽しんだ。  その腕時計は通学路の途中にある用水路に、友達と笑いながら投げ捨てた。  後から知ったのはその腕時計が母親の形見だということだった。  夜遅く、澪の父親が千鶴の家を訪れて、学校での澪の様子を心配そうに尋ねていた。  火事で母親を亡くしていることを知ったのもそのときだ。  胸が傷んだ。でも千鶴は何も知らない、と答えた。目は見られなかった。  澪の父親が帰った後、家を抜け出して用水路で時計を探した。  もしも――もしもあのとき腕時計を返して、もしも澪に謝れていたら。  こんなことにはならなかっただろう。  今でもあの日の、冷たく暗い用水路を夢に見る。  何かを隠す程度だったのが、いつの間にか殴る蹴るの暴力に変わっていた。  誰も止めなかった。千鶴にも止められなかった。  胸の内側に微かに存在した罪悪感は、いつしか恐怖に染まっていた。  もうやめにしよう――それを口にしたら最後、今度は自分の番になる。  誰もがそうなることを恐れて、一種のチキンレースのようになっていた。  暴力の激しさは日に日に増して、初めて澪が失神したときは、みんなが焦った。  でも案外大丈夫なことを知って、気絶させるのが日常となった。  単なる玩具だった澪が実験台になっていた。
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