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幼き頃から、父の神別は彦神に、祖父たち御名方尊と刃美尊の偉業を一部始終語って聞かせた。そして、科野となった水内を治める叔父たちの評判も、父に劣らず良かった。
水内の民が建御名方刃美尊の孫、彦神に期待するのは当然だった。そのため、彦神は幼き頃から期待の重圧にさらされ、民の期待に応えるには何をすべきか、日ごと悩んでいた。
干拓すべき水内と呼ばれ湿地は、犀川や本流の千曲川に数々あった。干拓技術は祖父の代から各地の県主に受け継がれ、農繁期を終えた秋から冬にかけ、干拓工事が行われている。
俺が手をださずとも、干拓工事は毎年進む。農耕地は増え、民の生活はしだいに豊かになってる。我が一族は、科野となった水内を、このまま統治するだけでいいのか・・・。
彦神が行っている水内の治世は安定している。
背後に小さく音がした。音はやがて大きな馬蹄の響きとわめき声になり、彦神の近くに急停止した。
「彦神!迎えに来たぞ!今宵は宴だ!河合の工事を見たら、速やかに帰ろう」
馬は彦神の周囲をまわっている。
「叔父上は館におもどりか?」
彦神は馬上の主に言った。
「まだ河合にいる・・・。河合の工事、助言してくれぬか?」
「そんなことはあるまい。お前が全てを心得ている」
馬上で騎手が沈黙した。穂高屋敷の従弟、宇留賀は草原の端まで馬を進め、急流を眺めた。
「・・・この掘割は何工事だったと聞いた。岩が硬いだけあって、どんなに増水しても川岸が崩れぬ・・・」
「宇留賀、なぜ、俺に世辞を言う?俺が、いずれ、建御名方一族の長となり、科野の国の大王になるからか?」
「そうではない。事実、河合の分水工事は難航して・・・」
急流の音に、宇留賀の声がかき消された。
彦神は立ちあがった。草を食う馬の近くへ歩き、手綱を取ると、鐙に足をかけた。
「俺が父の後をついで一族の長になり、大王になろうと、現状は何も変わらぬぞ!」
鞍にまたがり、彦神はなおもつづける。
「今や、我が一族は、大和政庁に劣らぬ勢力を持っている。祖父の力もあって、大和政庁は、科野と科野から東に手をださぬ。そのかわり、我が一族は、ここより東の蝦夷地へ行けても、大和はおろか、出雲にも日向にも行けぬ」
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