三、彦神

2/5
54人が本棚に入れています
本棚に追加
/206ページ
 幼き頃から、父の神別は彦神に、祖父たち御名方尊(みなかたのみこと)刃美尊(とみのみこと)の偉業を一部始終語って聞かせた。そして、科野となった水内を治める叔父たちの評判も、父に劣らず良かった。  水内の民が建御名方刃美尊(たてみなかたとみのみこと)の孫、彦神に期待するのは当然だった。そのため、彦神は幼き頃から期待の重圧にさらされ、民の期待に応えるには何をすべきか、日ごと悩んでいた。  干拓すべき水内と呼ばれ湿地は、犀川や本流の千曲川に数々あった。干拓技術は祖父の代から各地の県主に受け継がれ、農繁期を終えた秋から冬にかけ、干拓工事が行われている。  俺が手をださずとも、干拓工事は毎年進む。農耕地は増え、民の生活はしだいに豊かになってる。我が一族は、科野となった水内を、このまま統治するだけでいいのか・・・。  彦神が行っている水内の治世は安定している。  背後に小さく音がした。音はやがて大きな馬蹄の響きとわめき声になり、彦神の近くに急停止した。 「彦神!迎えに来たぞ!今宵は宴だ!河合(かわい)の工事を見たら、速やかに帰ろう」  馬は彦神の周囲をまわっている。 「叔父上は館におもどりか?」  彦神は馬上の主に言った。 「まだ河合にいる・・・。河合の工事、助言してくれぬか?」 「そんなことはあるまい。お前が全てを心得ている」  馬上で騎手が沈黙した。穂高屋敷(ほたかやしき)の従弟、宇留賀(うるが)は草原の端まで馬を進め、急流を眺めた。 「・・・この掘割は何工事だったと聞いた。岩が硬いだけあって、どんなに増水しても川岸が崩れぬ・・・」 「宇留賀、なぜ、俺に世辞を言う?俺が、いずれ、建御名方一族の長となり、科野の国の大王(おおきみ)になるからか?」 「そうではない。事実、河合の分水工事は難航して・・・」  急流の音に、宇留賀の声がかき消された。  彦神は立ちあがった。草を食う馬の近くへ歩き、手綱を取ると、(あぶみ)に足をかけた。 「俺が父の後をついで一族の長になり、大王になろうと、現状は何も変わらぬぞ!」  鞍にまたがり、彦神はなおもつづける。 「今や、我が一族は、大和政庁に劣らぬ勢力を持っている。祖父の力もあって、大和政庁は、科野と科野から東に手をださぬ。そのかわり、我が一族は、ここより東の蝦夷地(えぞち)へ行けても、大和はおろか、出雲にも日向(ひむか)にも行けぬ」
/206ページ

最初のコメントを投稿しよう!