54人が本棚に入れています
本棚に追加
/206ページ
三、彦神
夜明け前に水内城を出立した彦神は、日が西に傾いた頃、武石峠を越えた。
明科につくと、彦神は二十里を駆けた馬が気になり、馬を止め、鞍から降りて歩きだした。周囲に集落はなく、犀川の川面を見おろす東の街道にそって、山裾から犀川の崖まで、草原がつづいている。
歩きながら、彦神は、街道の西を流れる犀川を望んだ。崖から川幅が狭い急流の川面まで落差があり、谷底を見おろすようだ。目を転じ、流れをさかのぼれば、落差はしだいに小さくなり、やがて、街道と犀川が溶けあって見える。
しばらく歩き、彦神は街道をそれて草原に馬を放った。
馬はしばらく彦神の近くにいたが、主の気持ちが己に向いていないと知り、草原に草を喰いはじめた。
彦神は草原にたたずみ、眼下の川に見とれた。
夕映えにきらめく水面が石や岩に砕け散り、陽光を水の色や泡と変える流れが、語り聞いた多くを彦神に思いださせた。
いつしか川の音が大きく聞こえ、岩を砕く石鑿と、鉄槌の音、ごおごおと燃えさかる炎、そして、熱せられた岩に水をかける間欠泉の噴出に似た音に変わった。
どの音も、父の神別が語って聞かせた、犀川治水工事の一場面を、彦神が心に描いた音だった。
やがて、川の音はささやきに変わり、しだいに大きくなって、民の声に変わった。
『建御名方様は水内を米所の科野に変えた。
その御子、神別様たちは科野の国を治め、民は豊かになった。
神別様の御子は何をしてくださる?』
「くそっ!俺に、何をしろと言うのだ!」
彦神は足を投げだして座りこんだ。かたわらの草をむしり、姿の見えぬ声の主たちに投げつけた。
川の水音はいっそう大きく聞こえ、彦神の肩に首かせのごとくまとわりついた。
最初のコメントを投稿しよう!