三、彦神

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三、彦神

 夜明け前に水内城を出立した彦神は、日が西に傾いた頃、武石峠(たけしとうげ)を越えた。  明科(あかしな)につくと、彦神は二十里を駆けた馬が気になり、馬を止め、鞍から降りて歩きだした。周囲に集落はなく、犀川の川面を見おろす東の街道にそって、山裾から犀川の崖まで、草原がつづいている。  歩きながら、彦神は、街道の西を流れる犀川を望んだ。崖から川幅が狭い急流の川面まで落差があり、谷底を見おろすようだ。目を転じ、流れをさかのぼれば、落差はしだいに小さくなり、やがて、街道と犀川が溶けあって見える。  しばらく歩き、彦神は街道をそれて草原に馬を放った。  馬はしばらく彦神の近くにいたが、主の気持ちが己に向いていないと知り、草原に草を喰いはじめた。  彦神は草原にたたずみ、眼下の川に見とれた。  夕映えにきらめく水面が石や岩に砕け散り、陽光を水の色や泡と変える流れが、語り聞いた多くを彦神に思いださせた。  いつしか川の音が大きく聞こえ、岩を砕く石鑿と、鉄槌の音、ごおごおと燃えさかる炎、そして、熱せられた岩に水をかける間欠泉の噴出に似た音に変わった。  どの音も、父の神別(かみわけ)が語って聞かせた、犀川治水工事の一場面を、彦神が心に描いた音だった。  やがて、川の音はささやきに変わり、しだいに大きくなって、民の声に変わった。 『建御名方様は水内を米所の科野(しなの)に変えた。  その御子、神別様たちは科野の国を治め、民は豊かになった。  神別様の御子は何をしてくださる?』 「くそっ!俺に、何をしろと言うのだ!」  彦神は足を投げだして座りこんだ。かたわらの草をむしり、姿の見えぬ声の主たちに投げつけた。  川の水音はいっそう大きく聞こえ、彦神の肩に首かせのごとくまとわりついた。
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