第1章

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 彼はきっと不器用で、本当は優しい人なのだ。私の背中を押したのも何か深い理由があってのことで、殺すなんて言ったのも冗談なのだろう。ただ人付き合いが下手だから、ネタばらしする機会を逃しただけだ。あれは嘘だった、なんて言い出すタイミングを失っているだけなのだ。 「ねえ、御堂島さん」  だから、私はその機会を用意してあげることにした。 「私を殺すって話、冗談ですよね」  これで、彼も私も気持ち良く今日を過ごせるはずだ。タチの悪い冗談はこれで終わる。気のせいか、御堂島も安らかな顔をしている気がした。さっきとは打って変わって表情に余裕があり、返答には淀みがない。 「もちろん本気だ」  気が狂ってる。 ***  運が悪い日は天候にまで恵まれない。  雨に濡れた尻をさすりながら、私は本社のロビーで泣きそうになっていた。今日は朝から遅刻しそうになり‐‐まぁその原因はルームサービスが美味しくて食事に時間をかけすぎたせいだが‐‐駅に向かって走るも、後一歩というところで電車に置いていかれた。普段なら間に合うのだろうが、打ち身だらけの体が痛くて思うように走れなかったのだ。次の電車に乗って無事遅刻は免れたが、今度は工場へとカラーサンプルを取りに行っているあいだに雨が降り始めた。連絡通路はないので、屋根のない横断歩道を渡る羽目になった。当然、クリーニングから上がったばかりの長袖ニットとフィッシュテールスカートはしっとりと濡れた。これが御堂島ならさぞかし嘆いたことだろう。  そして、さらに悪運は続く。雨に濡れまいと小走りしたせいで、痛みの残る足がもつれ転んでしまったのだ。なまじっか転ぶまいと背中を反らせたため、箱に入った眼鏡枠は無事だったものの、濡れたアスファルトに尻餅を付いた。というわけで、私は今痛む尻に手を当てたままロビーの壁に頭からもたれ掛かっている。  そして、ふと気づけば昨日から付けていたはずのピアスが片方なかった。シルバーの花の中央にピンクの石がついた、お気に入りのピアスだったのに。階段から落ちたときなのか、さっき転んだときなのか。いずれにせよ、今探しに行くのは無理だ。けれど、あとから見つけたとしても踏まれたり蹴られたりして使い物にならなくなっているかもしれない。
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