第1章 #2

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 寧ろ、初めて彼を『知った』気がして来たのだ。視界に入る物全てが書き割りの様な非現実感の中で、一つ一つの物体や事象が有り有りと鮮明に浮かび上がって来る様な、そんな実在感がひしひしと湧き上がって来る……。この社会の機構が虚構だと提議された今。自身が危険に晒されている今。想い人の行方や安否を気遣い焦慮に駆られている今。危険や死が接近する事で、私は初めて『生』を実感している……。  742617000027番。エス。ねえエス。貴方は心も身体も、本当の意味で素顔を世界に向かって曝け出した。自分に成った気持ちはどんなものですか? 今の私は危険が迫る事で初めて自身の実在を実感している、『生』と言う昂揚を生々しく体感している……! そう、そして貴方の行方を心底から案じる今、『他人』を想う事で初めて『自分』を獲得してもいる気がするの。  ねえエス。私は今、身も焦がれる程に貴方を愛している。今なら貴方と、上辺では無い真の睦み合いが出来る。そして貴方と再会を果たせた時、その時は……。貴方に付き添い、私自身もこの顔を……)  彼女の白魚の様に透き通った左手の薬指には、犯行以前のエスから贈られた指輪が嵌められている。真新しく擦り傷一つ見当たらないその虹色の指輪は、段々と早春を想わせる様な仄かな桜色を帯び始めていた。           *  742617000027番。現在、世情ではエスと俗称される重犯罪者を産んだ肉親達は思い掛けない事態を前に憔悴し切っていた。連日大挙する野次馬やマスコミ連中の監視を前に、彼等も叉自宅で蟄居せざるを得ない鬱屈とした状況下で過ごしている。  妻方は精神的動揺から容態が急変し、数日間一切の飲食も会話も無くベッドルームで寝込んでいた。そして父親方は現在たった一人、消灯させた薄暗い台所の中で暗鬱と立ち尽くしている。その虚無的な様相は、幽霊と見紛う程に生命感が希薄だった。  床に臥せる妻を甲斐甲斐しく世話し続ける中、連日押し寄せては尋問や情報収集を求める警察やマスコミへの一連の対応にと切迫し……。父親としての責務を意識し続けて来たが、彼自身も既に精神は疲弊し限界へと近付いている事を自覚していた。  警察関係者ならば真っ当に相対せざるを得ないが、連日雲霞の如く押し寄せるマスコミや近隣住民、運動団体から成る野次馬連中を追い払う事は不可能に近かったのだ。
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