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もちろん、写生がすべてというわけではないし、それを推奨するわけではない。しかしながら、基礎としての写生というツールを自主的に詠み、読むという作業のなかで、ファンタジーも空想もひろがりをみせる。土屋文明は、アララギの思想として、<人間即短歌>という理想を掲げたが、若い人にそれを求めることは酷であるし、聞く耳をもつ人はいないだろう。すでに非正規雇用の増大やブラック企業、ブラックバイト、ブラックパートの過酷労働など、生活詠が世相を反映しすぎており、また、作詠の意味も作者によって異なっている。自分自身の表現の手段という、言いきる人もいる。作者と読者が解離してきたし、世代を越えてしまうとわからない歌に遭遇する。しかしながら、短歌は感動を詠い感動を共有するツールである。自己完結してしまったり、自己満足に陥ってしまったらなんの体もなさない。読みを深めるということは詠みを深めていくことであり、詠みを深めるということは、ひとつの詠草を深く読むということである。読者と作者との信頼関係がなければ成立しない。かといって、説明調になってしまったら、もとも子もない。いい歌とは、現在の歌壇の潮流からすれば、言わないで感動を伝える。難しいことだが、単に自分自身の体験を語るだけにとどまらず、単に投稿してしまったらそれでおしまいというわけではなくて、つねに推敲し続けることが大切であり、自分自身にとって大切な歌であるほどその姿勢が問われている。ときに採られた歌でも推敲し続けること。つねに批評の場に晒すこと。それに耐えてこそ、自分自身にとって大切な歌が生み出されるはずである。誰も教えてはくれないからこそ、場を求めて歌会に出る。謙虚な姿勢で居続ける。たとえ、この、ツールとしての写生という考え方に共鳴できなくても、自主的に詠み、読むという作業は大切にしてもらいたいし、自主的にやらないと身に付かない。嫌々遣らすのも遣らされるのも、嫌である。人間だから、仕方がない。そこに短歌の意味を見いだせるかが今の歌壇に問われている、歌壇にいる歌人みんなに問われていることなのではないだろうか。もし、豊かな心持の生活詠を詠おうと思えば、つねに写生の基礎が肝要であり、詠み、読むという作業が大切である。
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