角川「短歌」10月号より

2/4
前へ
/15ページ
次へ
まずはじめに「写生」とはなにか。 岡井隆氏が簡明に解説している。写生とは、<生を写す>ということであり、<生>とは、「今(現在)」に「われ(わたくし)」のまわりに「自分の外にあるもの」と説く。「歌は、「生を写し」ながら、究極において表現するのは、「わたくし」の「今現在」の感情なのである。言葉を使って、さまざまな外部を描写しているようにみえながら、目指すところは、“感情”なのであるということを忘れてはなるまい。」。 この“感情”に一行を使っていること、さらに棒点を打っていることに、単に景を切り取るだけではダメだという強い意思表示がうかがえる。 また、読者論としての写生として、永田和宏氏は、読者に<メタ視線>、すなわち、単に追体験するのではなく、対象を共に俯瞰するという視線を提唱する。行数が短いため、詳しいことは、永田和宏氏も著書『作歌のヒント』新版を読んでほしいとかいているが、対象と作者と読者との俯瞰的三者関係を、「読む」というときにも留意して読むことを言っている。 近代短歌史は、写生の歴史であり、アララギの歴史である。この提唱者は正岡子規であり、島木赤彦や斎藤茂吉、土屋文明などによって深められた。 岡井隆氏も永田和宏氏もアララギの系統をもつ結社に長らく在籍し、現在の歌壇のリーダーともいうべき存在である。今回はこのふたりの文章を抜き書きしているが、同じ土屋文明から独立したおとなり通しのふたつの結社ということに変わりはなく、根本は、一緒。わかりやすい歌とわかりにくい歌との混在する現代歌壇において写生にたち戻り、感情を表現するためのツールとして使い、また、読者も単に自分自身の体験に引き付けるのではなく、俯瞰的に読み解く作業が求められている。作者と読者とが、景というひとつの観点にたち、三者関係のなかで読みと詠みを深めていく、そんな特集だったのではないか。 現代歌壇においては、作者と読者が解離しており、離反しているようにみえるという指摘もある。しかしながら、わかりあえる<場>としての景であり、写生というドクトリンをもう一度見直したい。あくまでも、ツールとしての写生であり、それが単なる写真ならば意味をなさない。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加