第3章

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◆  後藤田直美は、暗赤色に澱んだ池のほとりに立っている。濁った水の下に、生き物の気配はない。住宅街を抜けた場所にあるその池は、昼間なのに妙に暗い雰囲気が漂っている。隣接する公園にも、人の気配はなく閑散としている。  何と言う名の池だったか、忘れてしまった。名前など判らなくても、この辺りで「池」といえば、ここだけだ。生温かい風が渡ってくる池のほとりには、古びた小さな祠がある。苔むした石造りの祠は、いつの頃からそこにあるのか、詳しい縁起はどこにも記されていない。しっかりと閉じられている扉には、触れる者を拒むかのように、数枚の札が貼られていたのだが──今はその残滓がしがみついているだけだ。 『この池には、鬼は棲んでいる。鬼は望みを叶えてくれるがな、その代償に一番大切なモノを持って行く。だから、簡単に望みを口にしてはいけないよ』  そんな事を言っていたのは、祖父だったか祖母だったか。 「自分にとって、一番大切なモノを取られる」  一番大切なモノって何だ? 私はここで望みを口にしたけれど、誰も何も要求しては来なかった。この祠の封印を解いたのは、私。もう、随分前の事だわ。  その頃、直美はまだ中学生だった。クラスの連中は、直美を理解しようとしない者ばかり。しかも、教師までもが「クラスに溶け込むように努力しろ」などと言い出したのだ。この私に、馬鹿なクラスの連中と同じ事をするようにと! 直美が相手にしないでいると、今度は放課後に呼び出して説教をし、果てには自宅にまで押し掛けて来るようになった。 「うっとおしいったらなかったわ。馬鹿な連中のマネをしろなんて。あんな事をしなければ、もう少し長生きできたかもしれないのに」  直美はしゃがみこむと、祠の扉に手をかけた。古びた木の扉は、耳障りな音を立てる。  あの時初めて、この池の祠の事を思い出したのだ。鬼神がいるなんて、信じていた訳じゃなかった。ただイライラして、誰もいない場所に行きたかっただけだ。自転車に乗って十五分程。まばらな木立の中に、目的の池は暗赤色の口を開けていた。鬼神を祀っているという祠は、今と変わらずそこにあった。ただ違っているのは、封印の札の有無だけだ。  無性に気が立っていた直美は、何かに八つ当たりしたくて、祠の扉に貼り付けてあった封印の札をビリビリに破り捨ててしまったのだ。
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