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おじさんは少年を起こさないよう静かに寝床から抜け出した。
自分がいつからこの居住区で暮しているのか、それは思い出せなかった。
頭に大きな怪我を負って地下の通路で倒れていたことを覚えている。それより前の記憶は無い。だらだらと血を流しながら明かりの無い地下の通路を手探りで進んでいた。膝の下あたりまで淀んだ水に漬かりながら歩き、何度も足を滑らせ、汚れた水の中に膝をついた。
助けを呼ぼうとは思わなかった。呼んだところで誰も来ない、それははっきりと分かっている。そもそも誰をどうやって呼ぼうというのか。
どれぐらい歩き続けたのだろう、遥か彼方に小さな明かりを見つけたのだろうか、それとも乾いた場所にたどりついたのだろうか。
記憶はまた飛ぶ。
いつの間にか部屋にいた。頭だけでなく足にも傷を負っていた。回復には随分と時間がかかったはずだ。その間ずっとひとりだったのか、それとも誰かと一緒だったのか、それは覚えていない。
その時点ではまだ少しは過去の記憶を保っていたはずだ。
しかし、細くつながっていたはずの何かは、すぐにばらばらになり、やがて消滅した。忘れるのではなかった。思い出せなくなる。忘れたことすら忘れる。記憶は、もはや何の意味も持っていない。どこかで誰かと前後に流れのある正しい時間の中で生きていたはずだった。もはや過去も未来も無い。今、この瞬間だけを生きている。
やがてそれも忘れた。
過去の記憶を完全に失ってから長い時間が経った。
ある日、本を見つけた。偶然の出来事だった。文字は、最初から読めた。文字が読めることに戸惑いは無かった。それは、あまりに当然のことだった。
文字を読める。記憶の再発見が始まった。
さらに長い年月を経て、望遠鏡を見つけた。誰が作ったのかはわからない。誰かがそれを作ったことは知っている。
ふと、鍵のかかった部屋を開けるにはどうしたらいいのかを考えた。
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