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「え? あ、うんん。なんでもないよ。ちょっとびっくりしただけ」
「そう」
リオはふたりの間にある何かを感じ取り、今度アキに問いたださねばと思った。
「じゃあさ。マスターは太宰みたいなセリフ言われちゃったらどう? 」
「なんてセリフだっけ? 」
「俺と命をかけた恋をしてみないか。ってやつ」
「………」
「ねぇリオ。今日はもうすぐ開店時間だから、この話の続きはまたこん」
「僕はただ全てをかけて愛するだけ…大きな見返りをそんな簡単に求めることも。求められることも、軽く口にするようなことじゃないと思うな」
「正司さん…」
「うっわ…真面目…」
端正な顔立ちに心の読めない表情を浮かべ、マスターはアキに着替えるよう促した。
リオはチラリとマスターの様子を窺う。
「遠山君」
「はいっ」
ふふっ。とマスターが笑う。
「前に言ったよね、僕は君が思ってるようなたいした人間じゃないって」
「なんかあったっぽいけど…今度アキに聞いてもいいっすか」
「アキが話すなら…構わないよ」
「うわ。無理そー」
「そう? キミ達仲良いから」
「マスター。もしかしてヤキモチ? 」
「………」
やべ。
リオは咄嗟に席を立った。
タキシードに着替えてきたアキが指慣らしの旋律を奏で始めたので、ちょっとひらめいたアイディアを実行に移す。
リオはアキのそばまで行き、ヒソヒソと相談していた。
その姿がより一層マスターの嫉妬を煽ってしまうのは計算づくだ。
そして指慣らしが終わるとなにやらキーを合わせるようにポロロンポロロンとピアノの音がした。
マスターはその音に意識を傾けながらも開店準備を整えていた。
「マスター。アキの気持ち、俺が代役で歌うから」
「え? 」
そしてアキのピアノが始まる。流れるような美しい旋律、リズム。誰一人客のいない店で本気でアキがピアノを奏でるのはこれが初めてかもしれない。
ジャズの名曲 『 Fly me to the Moon 』 。
有名な出だしではなく、あまり知られていない前奏からリオは歌い始めた。
歌いやすい曲では有るがジャズはそう簡単に上手くは歌えない、なのに事も無げに歌い上げる声は伸びが良く高音のかすれ具合に色気があった。
歌うと語るを混在させたような歌詞がマスターの中に吸収されていく。英語が得意なマスターには和訳は必要ない。英語のままの意味で理解できるのだ。
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