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裏切りたいくらい愛してる
「俺と命をかけた恋をしないか」
「リオ?」
「な~んて。太宰治が、かふぇの女中に言ったセリフ。最後にはその女中さんに無理やり心中させられちゃうんだけどね」
ここはお馴染み、新宿二丁目 『白芥子』 。
ここで専属ピアニストを務めるアキは友人のリオと開店前の数十分、店の準備をしながら他愛のない会話をするのが、このところの日課になっていた。
きっとリオの恋人マサが長期の海外出張にでも行ったのだろう。
「なんでいきなり太宰? 」
「いま人間失格読んでてさ。アキならどう? マスターにこんなセリフ言われたら」
「それは…」
この店のマスターはアキの恋人であり、戸籍上の父親だ。この界隈で言う入籍をめでたく果たしていた。
が、そのマスターには暗い過去があった。それこそ命がけで愛してくれた恋人を悲しい亡くし方で失っているのだ。
そのマスターが、軽々しく 『命をかけた』 なんて口にするはずがない。
「アキ? 」
「あぁ。ごめん。思いもしない言葉だったから。リオならどうなのさ」
「俺は言われるより言いたい方かな」
「リオらしい」
クスリと笑いながらアキはモップをしまい、リオの隣のカウンター席に腰掛ける。
長袖のカットソーを少し腕まくりし、手首から指先のマッサージとストレッチをする。
まるでピアノを弾く前の儀式のようだと思いながら、リオはアキの長い指を眺めていた。
「でも。ぜったいマサはノッてくれないけどな」
「そうなの? 」
「そ。アイツが俺の予定に合わせてくれるはずないから。それこそ命がけの恋なんて無理っしょ」
「ん~。マサさんって、ちゃんと話したことないからリオからの情報でしか知らないけど、忙しいのにここまで迎えに来てくれたりして、結構リオのこと好きなんじゃないかと思うよ? 」
「………まぁステディになってくれとは言われてる」
「ほらぁ。本気じゃん」
「僕の本気も伝わってるかな、アキ」
「しょ…マスター」
小さな事務所との間にあるドアは薄いらしく、それともリオの声の大きさにつられてか、ふたりの会話がマスターに丸聞こえだったらしい。
「僕はキミに何もかも捧げる覚悟だよ、アキ」
リオが冷やかすように軽く口笛を吹いた。
にっこりと美しい笑顔で告げられた言葉とは裏腹にアキはどこか心配そうにマスターの顔をみつめる。
「ん? どうしたんだい? 」
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