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晶は慌てて立ち上がった。中座した事をわびようとドアを開けると、心配げな店長が立っていて、そのまま、帰り支度をさせられる羽目になった。
こんなに早く帰路に着く事は珍しい。
そう思いながら勝手口から店を出、裏道を通って、表通りへと出た。週末の宵の口、道行く人々は互いに笑い合い、賑やかに繁華街を歩んでいる。
亜澄も、近いうちに羽山詩織とこのような場所を歩くのか。 腕を組んで通り過ぎていくカップルを見やりながらふと後を振り向くと、今、カップルから連想していた当の本人が三メートルほど後方に立っていた。無論、羽山詩織の方ではない。
「亜澄?!」
思わず声をかけると、黒い麻のジャケットを着た人影は、びくりと肩を震わせた。些か、決まりの悪そうな瞳が、こちらを見据える。
「何して――」
言いかけて気づいた。目が、合った。再会した時以来、初めて、目が合った。
その事に湧き上がる歓喜に、晶は嫌悪の感情を持った。――否、持とうとしたが、出来なかった。目が、合い続けている。亜澄が、自分を見続けている。
それは今まで感じた経験が無いほどの嬉しさと、気恥ずかしさと、困惑と、羞恥と、様々な感情を沸き起こさせる視線だった。「何してるんだ!」
だから、つい強い口調になったのは、その感情を打ち消したかったからだ。
亜澄は、そこでやっと視線を逸らせた。何を言うのか考えている事を示す右斜め上への視線。それは、嘘をつこうかどうしようか迷っている時の亜澄の癖だ。そして、出る言葉がどちらなのかは、実は晶には分からない。視線が晶に戻った。亜澄に良く似合う真っ直ぐな瞳。
「店長が、体調悪くて早退するって言うから、心配で、様子を見てた」
心配。
亜澄の口から放たれるその言葉に、晶は改めてショックを受けた。
何にショックを受けたのか――答えは明白だ。
今まで、一度も喋ろうとしなかったくせに。
一度も、視線を合わせようともしなかったくせに。 今だって、晶が気づかなければ、適当なところで切り上げて帰っていたに決まっている。
そうだ、亜澄は、気づかせないのが上手い。
小学校の修学旅行で熱を出した時だって、帰宅して寝込んだと聞いた時まで、ずっと隣にいた晶にもその事を気づかせなかった。
理由を訊かれると、晶を、心配させるのが嫌だからだと言ったそうだ。
晶に、気にかけて欲しくなかったと言ったそうだ。
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