線香花火

3/5
26人が本棚に入れています
本棚に追加
/95ページ
椿は能面のように表情に乏しい男で、口数は少なく、人形のようなところがあったが、一度だけ感情を表に出したのを見たことがある。 それは庭仕事が長引いて夕刻になり、私邸の傍を流れる大川の対岸で予定通り花火大会が始まった日のことだった。今日はもう仕事を止して、夕飯を食べていったらどうだという父の言に、ひどく恐縮しながら由さんは頷き、あわただしく庭師達が湯を浴び終えて、縁側に急拵えで用意した庭師達の卓に着いたそのとき。いちばん最後に湯を終えた椿が席に着いたら、 ふつり、 と、――結い上げていた洗い髪が、肩へ流れて落ちたのだった。涼しい夕風が吹いてくる縁側の向こうに明るく咲く花火を見ていた家人の視線が、そのときの「あ」と零れた椿の言葉に誘われて、彼に注がれた。 それはただ髪が流れたことに過ぎなかったのに、椿がひどく赤面して目を伏せるので、とても淫靡なことのように映ったのだった。何ということもなく皆の視線は散り散りになったけれど、妙な空気がその場に流れていた。髪を下ろした椿は湯上がりで火照った肌に早くも汗が滲み、すこし瞳が潤んでいるようで、どうにも見ていられない有様だった。
/95ページ

最初のコメントを投稿しよう!