第4章  左手の指輪  

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 越智は右手の指で、萎んだかつての膨らみを覆い隠すひきつれをなぞった。   「桜井が、自分は火達磨になりながら私を庇ってくれた。死ぬな、生き抜けって……。だから、これは鎧なの。私が生きていく為の鎧、どんなに辛くても生き抜くために必要なの」 「越智……」  東吾はシャツを拾い上げて、越智の肩に羽織らせた。その細い肩を抱きしめたい気持ちがあった。  だが、それを行為に移してしまっては、二人が保ち続けてきた「距離感」を台無しにしてしまいそうだと東吾の迷いが戸惑う指先に表れていた。  何かを言いたげな東吾の優しさを充分知っている越智は、それを拒むように自分から離れた。しかし、視線の焦点をしっかり合わせてきた越智に、東吾が声をかけようとした時。越智は告げた、まるで自分自身を鞭打つように。 「だって、あの時、桜井は知っていた。私が彼を愛してなかったって事」  人を愛するって、何なんだろう。  以前の東吾には難しい答えではなかった。祥子を愛しいと思い、娘を慈しむ。 単純で迷いの無い答えだった。  だが、今。  越智の心の深淵を覗いてしまった今、そして、ルシアンの翡翠色の瞳に自分が映る一瞬に魂ごと引き抜かれそうになる今。  答えが、見えなくなってしまった。 濃い霧が、祥子の優しい眼差しを隠してしまっているのだ。  そして、その霧が立ち上るまでの自分が如何に幸福であったと思い知らされた。迷いのない幸福を疑わない日々が、もう遠い気がして東吾の目は涙に濡れた。 そして、何故だろう、その名が口からついてでた。 「ルシアン……」  車から、降りてこない東吾を心配したのか、ルシアンが店から出てきた。 フロントガラス越しに眺めながら、若い彼の瑞々しさに打ちひしがれる気分だ。  なぜ、君は俺に構うんだ? 君が眩しすぎて、俺は怯えているんだぞ……。  ルシアンが真っ直ぐ運転席ドアに向かって来たので、東吾は無下に出来ずウィンドーを下げた。  心配そうな表情は、いつかの朝と同じだ。 「ひどくお疲れの様ですね、大丈夫ですか?」 「ああ、コーヒー、お願いするよ。いま、店に行くから」 「ここで待っていてください」  東吾がドアを開けようとするのを押し留めたルシアンは、くるっと踵を返して店内に駆け戻って行った。
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