過去の事象

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「キミは彼女を弄んでいるに過ぎないだろう?」 こちらが予約を入れた大学内の防音室に、不機嫌丸出しのラテン系の優男が侵入して来た。 聞き慣れない男の訛り満載の早口の罵倒。トゲトゲしい声が却って上滑りして言うだけ言って男は、鼻息の荒いラテン男をまるで取り合わず暖簾に腕押しのこの男に呆れたか、荒々しい足音を立てて負け犬よろしく吠えながら去って行く。  楽は女関係のトラブルに慣れっこなのか、さしてショックを浮かべることもなく、平然としたふてぶてしいとも取れるオリエンタルな能面顔で、型落ちもいいところの筐体モニターに目を向けるその表情が、憎らしくなるほど男の情欲を掻き立てるというのに、小さなイヤホンで耳を塞ぎ自分の世界に没入し、口の端にくわえられたままの煙草から揺らめく紫煙に、見ているこちらが虚しささえ覚える。 キーボードを弾く規則的な音が部屋に溶け、煙草を奪い取って無理やり唇を奪ったらどんなリアクションを返すのかと妄想しても、仕掛ける方は清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟と衝動なのに、恐らくこの冷血動物はまるで、同性とのセックスだって日常の一場面の一つに過ぎない程度の解釈しかしないだろう。 早熟の天才、深山楽(みやま がく)は中学生の時代には既に、海外のあらゆる古典派音楽の錚々たる面子に絶賛された。 過去の偉大な音楽家たちと同じように、パトロンの庇護の下に活動を行って来た。 そしてそれは長くは続かなかった。 母国日本の高校へ進学するとすぐ、ある女性との大人の関係が、周囲に証拠と共に露見した。 深山楽は一児の父になっていた。 そして…――
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