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花粉が、迷い込んできた。
「あはは」
ぐすぐす右手で鼻をこすると、穂刈は大口を開けて笑った。すらりと背の高い彼女の体が、軽く折れ曲がる。楽しそうで何より。
春の嵐の余韻を残すかのように、ところ構わずこびりついた桜の花びらを踏みしめ、私たちは坂を上った。その間、穂刈は一昨日の嵐で船が転覆して春の海を泳いだ話を、息継ぎもせずに話し続ける。高い波と大粒の雨は、空気中でこそ穂刈の体を強打してきて痛い目を見たが、ひとたび海中に潜るとたちまち柔らかい水が彼女を包み、夢中になって泳いだのだという。
「イソギンチャクに刺されちゃったんだけどほらここきれいだったから触っちゃったの」
三月の水はまだたいそう冷たかろうに、平然と泳いだという穂刈は嘘をついているのだろうか。しかし、妄想を語ったにしては彼女の白い手の甲に浮かんだ傷は、生々しい存在感を放っていた。
平野を抜け、坂を上った。
森の入り口から木々の間を抜けると、もはや見慣れた深緑の瓦ぶきの屋根がどしんと構えているのがすぐに目に入った。三階建ての建物に遠慮するかのように、木々はその周囲を器用に避け、窓辺にはうまく光が差し込んでいるように見える。
ああ、戻ってきてしまった。戻らざるを得ない運命なのだと、軽い足取りでここを出た一か月前にも、わかっていたはずだ。けれど、当時の晴れやかな気持ちと今ではほど遠い。うらめしく朱塗りを見上げ、壁を一部ぬきさった通称山門をくぐり広場へと出る。学び舎にぐるりと周囲を囲まれたそこは、足首の高さまでにそろえられた一面のタンポポ畑がひとがっていた。丁度円の向こう、人が腰をかがめてやっと一人通れるような穴、通称「くぼみへの道」まで、びっしりと。毎年の、新年度の花畑だ。私がここに来た年は、菜の花だった。臭くて臭くて閉口したのは、いい思い出だ。
本心を隠して「奥ゆかしい」とそれを表したあの頃には、こんなに長くここにいることになるとは夢にも思ていなかっただろう。そしてそれを正直に「クサイ」と表現した(感想を述べただけ?)の江連と、「きれいだけどこの香りは嫌い。だって鼻の奥にこびりついて離れないんだもん」と顔をしかめていた穂刈と仲良くなるなんて、これっぽちも予感していなかった。直接的な表現は、野蛮だと思っていた
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