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「あら、櫛田さんとこのお兄ちゃん、おひさしぶり」
「あ、どうも」
急に呼びかけられ慌ててブレーキをかけて自転車の速度を緩める。反射的に返事を返していた。
長く取引している花屋、花源の奥さんだった。
「あれだ、あの、おたくの親父さんに、あの、あれ、あれな、あれだから、な」
花源の親父さんもいた。
「やっす」
言葉にならない感じで適当に答える。
「あれな、あれ、あれ」
「気をつけてね」
二人に向けてへこへこと頭を下げながら遠ざかる。
近所のどこにいても知り合いばかりなのは昔からだ。子どもの頃はそれも悪くなかった。高校生ぐらいからはずっと落ち着かない。一年の浪人の後に知り合いの誰もいない札幌に行ったのはご近所付き合いにうんざりしていたからというのもある。
「お、朝からどこ行くの」
パンツスーツ姿の里佳が目の前にいた。
「おまえかよ。なんでここにいんだよ」
「駅に行く途中。新しいとこ面接に行こうかなって」
「早いな、切り替え」
「でもいいや。乗せて」
「ダーメだよ、おま」
「いいじゃん、昔はよく乗せてくれたじゃん」
浩人が断るよりも先に里佳が勝手に自転車の後ろにまたがった。
「おま、道交法変わってから二人乗りはうるさいからダメだって」
「かたいこと言わないで。さあ、行こ行こ」
視線の隅に警察官の姿を見つけた浩人は慌てて自転車を止めた。
荷台から後ろにすとんと飛び降りた里佳は何食わぬ顔で歩き出す。
警官はジロリと浩人を見たあと、そのまま通り過ぎた。
「で、おまえはどこ行くんだったっけ」
改めて里佳に聞いた。
「ヒークンは?」
「仕事だよ、仕事」
「え、仕事見つかったの」
「違うよ、櫛田葬儀店の仕事。お手伝い」
「なんだ。じゃさ、ついてっていい? 葬儀屋さんの仕事って昔から興味あるんだよね」
「俺んちに来てよく見てるじゃねえか」
「そうだけど、お仕事のことはよくわからないかな」
「仕事ったって、今日は写真預かりに行くだけだぞ」
「いいよ。私も暇だし。ついてく」
「暇じゃねえだろ」
「いや、暇になった。面接やめた」
「なんだよ、それ。まあ、スーツならいいか。邪魔すんなよ。あと、変なこと言うなよ」
「はーい」
胸を張って大股で歩き出した里佳の速度に合わせて浩人はゆっくりと自転車を進めた。
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