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家は線香の匂いだ。
大学に入って実家を離れ、初めて線香の匂いのしない生活を送った。無ければ無いで慣れるもんだというのが浩人の感想だった。
「お帰り」
櫛田葬儀店の狭い斎場では浩人の弟の泰人が忙しそうに案内状を整理していた。
「泰人、お茶」
三国は靴を脱ぎ、土間から和室に上がった。
「用意してあるから」
泰人は三国を見もせず作業を続けた。
ちゃぶ台の上には通夜の席で使う大きな急須と湯呑が並べてあった。
「あ、オレ、コーヒー」
三国と向かい合うように浩人が腰を下ろす。
「自分でやってよ」
やはり見向きもしない。
「なんだよ。じゃ、お茶でいいや」
子どもの頃から家には常にお茶があった。通夜の席でも香典返しにも、お茶は付き物だ。近所の福禄園が廃業してからは少しでも安くということで問屋から直接仕入れている。
「やっぱり実家のお茶が一番だな」
湯呑みのお茶には茶柱が立っていた。
「まあ、なあ。木山さんとこの福禄園がなあ。あそこのお茶はもっとうまかったから」
三国が湯飲みのお茶をグイッと空けた。
「あんまり覚えてないんだよね、福禄園さん」
小柄で人の良さそうな木山さんの姿はうっすらとしか覚えていない。
「そりゃそうか。おまえが中学に入る前だったか、木山さんが倒れちゃったの」
「んー、それも覚えてない」
「だよな」
三国は空いた湯呑みにまたお茶を注いだ。
「にしても、おまえ、今日はご遺族様の前で余計なこと抜かしてんじゃねえぞ」
「なにが」
「僕も札幌にいましたとか、余計な無駄話すんじゃねえって言ってんだよ」
「あー、あれね。でもさあ、そういえばご遺体も札幌なんでしょ。知ってたの、故人様の出身とか」
「あのなあ、おまえの父親は何屋なんだ。言ってみろ。伺っておりますですよ。当たり前だろ。それが仕事だろうが。なに言ってんだ、おまえは」
一緒に出歩くようになって初めて知った三国の仕事人としての姿勢には内心いちいち感心している。ただ、それを素直に伝えるのはなんとなく気が引けた。
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