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彼の視界から彼女の背中が瞬く間に消滅する。どうやら、彼女は頂上に着いたらしかった。ハァ、と彼は湿っぽい大きな息を吐く。外聞も知れず笑う膝を曲げ其れに手を当て、背中を屈し、一旦歩みを止めた。
彼女から彼の姿は見えていないのか、其れに関する言及が来る事は無かった。二人分の足音が一挙に消滅した為か、沈黙が強調される。
そして彼は屈伸し、息を落ち着けた。頭の中に往年の――彼は高校時代、短距離走の選手であった――フォームを思い描くと、ビニールが土に付く事も厭わずに、クラウチング・スタートの構えを取った。
脳内で、スリーカウントが為される。スリー。安物のジーンズを履いた臀部を突き上げる。ツー。息を吸って、止める。足の筋に、幾年ぶりかの緊張が伝わる。ワン。地面を抉る。彼は、全身を一気に爆発させた――――!
一気に段を駆け上がる。久方振りの疾走は上半身が上がっていて、傍から見れば随分と情けないフォームであった。手足もてんでバラバラに動いていて、当然速度も伴わない。しかも、若干フライング気味であった。とてもでは無いが、褒められたものでは無い。其の身体は、錆びついていた。其の経験は、薄らいでいた。
――だが、此の時彼は高校三年間のどんな記憶の自分よりも、気持ちの良い汗をかいていた。爽快感に包まれていた。其れは古いレースを、一息に引き裂く時の様だった。
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