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「一緒に、月に行かないかい」
唐突に、彼の貪る惰眠を切り裂いたのは、そんな誘いの言葉であった。彼は、導かれる様に双眸を開いた。其の視界は、苛烈な西日に拠る橙で、まるで用を為していない。
問いかけられた其の言葉は、何だか不思議な旋律に乗っていて、彼は目を覚ましながらも夢の世界にいる様な錯覚を覚え、咄嗟に足元を疑ってしまった為、返事を返す事が出来なくなっていた。
何て事は無い。左耳のイヤホーンが外れていたのだ。そして眠気防止に聴いていた、ピンク・フロイドの『狂気』の、何回目かも知れないエンディングが、たまたま言葉の拍子に合っていただけ。其れだけの事であった。
「月?」
彼はぶっきら棒にそう返すと、設置型の机に覆い被さる様に倒れ込んでいた己の上半身に力を入れ、身体を起こした。
妙な力のかけ方をしていたが故の痛みを伴う強張りの後に、何か滞っていた物が解消された様な、気怠い爽快感が後続する。
然程快調では無かったものの、幾分かは気分が冴える。具体的に言えば、複数文節を用いる事が出来る様になる程度には。
「何でまた、月を見に行かにゃならんのだ」
彼の問いかけに返ってきたのは苦笑であった。
「別に、行かなければならない、と言う訳では、無いんだけれどね」
其の言い方は、まるで自らの想定した解法で無い、何処か邪道めいた手段を用いて証明の為された問題の、部分点付きの採点をしなければならなくなった教師の、嘆息混じりの独白を連想させた。
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