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「ほら。今日は、中秋の名月だろう?」
「……だから、月見に?」
「ああ」
ふーん、と彼は呟いた。月見。率直に言って、そんなものに、彼は魅力を一切感じていなかった。ただ、即座に断りはしなかった。一旦判断の天秤に、其れを預ける事にする。
其れは一種のノスタルジィ故であった。
蓋し、月見と言う言葉自体、彼の中ではセピアが掛かっていて、飴の様な香りのするもので、彼の皮膚感覚からは、大いに剥離している。
とは言うものの、其れは彼が殊更に可妖しいと言う訳では無い。寧ろ、正常と言う事すら可能であった。
陽は、釣瓶落としに例えられる速度で傾いていて、所によっては、既に闇が落ち始めていた。
遠くの公園にあると思しきスピーカからは、音割れ激しい赤蜻蛉。児童に帰宅を促している。
図書館は当に閉館時間が来ていたが、職員や守衛が来る気配は無かった。其れ所か彼と、彼女と。其の二人しかいない様に思われる。
もうじきに、月が鮮明に見える事になるであろう。声の主の言が正しければ、中秋の名月――何よりも丸い満月が。
そして、同時に、街灯が灯される。或いは、もう灯されている場所もあるであろう。例えば日本郵政の配達車等は、万全を期して、薄暮の其の前から、すれ違い用前照灯――所謂ロー・ビームと呼ばれるもの――を点けて走行している。
彼にとって、其の、街灯が灯される、と言う事実は既に当たり前の事であった。
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