月の晶楼

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 人は元来、暗闇を怖れる生き物である。暗闇には、何か我々に害を為す未知が存在する。そう、信じていた。  故に人は、科学技術の発展と共に、暗闇を駆逐する事を選んだ。未知の概念の駆逐、征服。其れこそが、人類にのみ許された或る種の特権であり、万物の霊長足らしめる要素であった。  そうして、街灯が世界中に発展した。特に日本の照明たるや、宇宙からでも列島の形を浮かび上がらせる事が出来る程であると言う。  人は月の満ち欠けに拠らずとも良くなった。  星の光に願わずとも良くなった。  空を仰がずとも良くなった。  地上には、星よりも眩い街灯があった。  其れは神話の時代の終焉。月が、人から切り離された瞬間であった。彼の感じたノスタルジィは、月に兎の居た時代の残滓であった。  「ふぅん……」  彼は不精髭の伸びかけた顎に手を当て、思案気に唸りながら、自分に声を掛けた人を見る。同じ大学の同じ学科の同級生・月島謡(つきしま うたい)は黒髪を西日に輝かせながら、彼の言葉の続きを待っていた。  謡は何の荷物も持っていない様であった。彼は訝しむ。  彼のいる所――自らの通う私立大学の図書館と言うのは概ね、勉強なり、本の貸出等に用いる場所である。当然、本の一冊、そして其れを入れる鞄の類が無ければ不自然だ。本を裸で持ち歩く趣味があるならば、また別の話になるのであるが。  ――もしかしたら。  もしかしたら、彼女は、自分を月見に誘う為に此処まで来たのかもしれない。彼女の家が何処にあるかは知らないが、少なくとも下宿であるとは聞いた事が無い。  そうなると、此処に来るには、多少なりと手間がかかる筈。もしそうだとしたら、断るのは酷な話となるであろう。  其れに、彼は懐古趣味に対し、そして彼女に対し、悪しからぬ印象を抱いていた。其れ故に、先程から断らない、断ってはならない理由ばかりを考えていたのであった。
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