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実を言えば、帰る事が賢明なのであった。彼は大学から数駅離れた所にある住宅街に、家族と共に住んでいる。今日はバイトが無いから、早く帰って夕飯を食べようと思っていたのである。
「でも、月を見に行くって言ったって、一体何処に行くんだよ? 屋上なら、確か飛び降りの件で封鎖されていた筈だろう?」
彼は、天秤が忙しなく左右する中で、七月辺りに校内で見た掲示の内容を思い出し、精一杯の建前を口にする。とは言え、其れが気になっていたのも事実であった。
健全な男子大学生としては、月見と言う口実で、ネオン輝く安ホテルへとしけこんで、よろしくするのも全く吝かでは無いのだが、恐らく、謡はそんな事をする人間では無い。そう、彼は思っていた。そうあって欲しかったと、換言してもよい。
此の学校は、辺りを一望できる丘の上にあって、月見――と言うより、空を見上げるのには、此の上無い好立地である。其れ故に、閉鎖には少なからず悶着があったと彼は聞いている。
屋上が閉鎖されて、最も割を食ったのは天文部――今は同好会であるが彼は其れを知らない――なのだが、飛び降りたのもまた天文部員であった。自業自得だ、と彼は掲示を見る度に、何と無く思うものであった。
「うん、其れは知っている。場所はボクの方で用意してあるから、心配は要らないよ」
彼女は彼の問いかけに、事も無げにそう言ってみせる。彼は今更ながらに彼女の一人称が『ボク』であると言う事を再認識していた。
ともすれば幼さを強調する結果に終始しそうな其れは、彼女の醸す雰囲気と相俟って、耳を擽るフェミニンな印象を聴者に与える。
「え、其れって――」
「……ねぇ」
「あ、おう。――何だよ」
彼は其の場所を問おうとして、逆に彼女の問いかけに遮られる形となった。レディファーストと言う訳でも無いが、先を譲る事にする。
あ、ごめんね、と彼女は謝辞を述べ、仕切り直しをする様に、咳払いをした。
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