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「ねぇ、×××君」
彼女は問いかける。聞き間違うはずも無い自分の名。傾注。
「――――もしかしたら、ボクと一緒に、行きたくない……のかな?」
何かが壊れる音を、彼は自分の胸中に聞いた。精神の在処等、彼の解する事の出来る次元の話では無かったものの、此の時彼の精神、主に自制心と呼ばれるものは、胸中に其の残骸を残すのみであった。
彼女は、曖昧な笑顔を作り、如何にも冒涜的な角度で小首を傾げていた。其れが其の全体を以て初めて構成される、宇宙的な魅了の呪いであると説明されたとしても、彼は疑わなかったであろう。
寧ろ、彼女の目尻に輝く水滴を見るに、其れを疑う余裕すら、彼には無かったと言って良い。
「い、いや、そう言う、訳じゃない」
「じゃあ、どう言う訳?」
「其れは――」
彼は返答に詰まる。多分、言葉に出来ない虚数が詰まっていた。
「言えないの? ……まぁ、ダメ元だったし、別に、無理にとは――」
彼女の言葉は、瞬く間に尻窄みとなる。言葉と意志が、まるで正反対を向いている事くらいは、彼にだって理解が出来た。そんな湿気を帯びたもにょもにょは、彼のなけなしの理性の機能を奪った。
嗚呼、ズルいなぁ、と彼は敗北の刹那に思う。だが、何処かで其れを望んでいたのかも知れない。そう思う程に其の言葉は、彼の唇から滑らかに漏れ出でた。
「大丈夫。空いてる。行こう。今すぐに」
彼女は、満面の笑顔を浮かべた。生きててよかった、と彼は感じる。
そんな最中も年代物のウォークマンは我関せずと、ピンク・フロイドを流していた。
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