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そう思ったときの事。
「亮介」
呼吸が止まった。
歩が止まった。
たぶん、心臓さえも止まったと思う。
馴染み深い名前。
聞き慣れたような、それでいてどこかよそよそしいよう声。
背中から、僕の身体を貫いた。
「亮介……ようやく見つかったな」
素早く考えた。
このままダッシュして、それで、逃げ切れるかどうか。
たぶん、むつかしい。僕は、100メートルを7秒で走れたりはしない。
何かを、しなければ。
その上で逃げるのだ。
僕は、ビニールのひもをぎゅっと握りしめた。
そして、振り向く。
「……父さん」
父さんと、その脇に新海さんが居た。
父さんの表情は読めない。新海さんは、哀れみの表情をそのいかつい顔に浮かべていた。
「何しに来たの」
内容と裏腹に、語尾は疑問形に持ち上がらなかった。
それを疑問に思うのは、なかなかむつかしい。
「帰るぞ」
「嫌だ」
即答して、一歩後ろに下がる。新海さんは、一歩前に進んだ。父さんは微動だにしない。
「帰るぞ」
全く同じ調子で繰り返した。
僕も同じ調子で返事をする。
「何を考えている? 出歩けるような身体では無いのだぞ?」
「でも、現に出歩いている。体調だって悪くない」
「一時の精神的高揚だ。すぐに参る。薬は?」
僕は黙って首を振った。
新海さんと僕の立ち位置は、砂時計のようにじりじりと変化している。父さんも、その後にぴしりと付いてきていた。
「いったい、何を考えている?」
再度訪ねてきた。僕は吐き捨てるように言う。
「それが分からないなんて」
「死にたいのか?」
「あそこに居たって同じだ。……そう、さっき、嘘ついた」
「体調か?」
「そう。悪いんじゃない。むしろ、良いんだ」
「…………」
ああ。
僕は目をつむりたい気持ちになる。
父さんが、またあの視線で僕を見ている。
どうしてそんな、茫漠とした、掴み所のない眼が出来るのだろう? ましてや、こんな状況。
ふざけてる。
「……何を見ているの?」
僕はカッカとしてそう言い放った。
視界の隅で、新海さんが訝しげな顔を父さんに向けているのが見えた。
「いっつも、そんな目を向ける。嫌なんだ!」
動きを止めた。
身体中の力を込めて、父さんを睨み付ける。
新海さんも、父さんも、歩みを止めた。
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