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「婆さん、窓を閉めなさい。冷たい風は身体に毒だよ」
私のその声が届かなかったのか、ベッドに上半身を起こした妻は何も答えず、カーテンを開け放した窓から外の景色をただ静かに眺めていた。
土手沿いに並んだ桜の木を見たいのだろうが、小春日和の昼下がりとはいえ、まだ風は厳しい冬の冷たさを孕んでいる。
少し心配になって妻に近寄ろうとした時、不意に彼女は、こう呟いた。
「私はもう、今年の桜を見ることはできないでしょうねぇ」
自分の身体のことは自分が一番よくわかっているだろう。だからこそ、今まで弱音など吐いたことのない妻の口から出たその言葉に、私は少し、うろたえた。
「なに弱気なこと言ってんだ、婆さん。今年も見られるさ」
内心、もはや気休めに過ぎないかもしれないなどと思いながらも、私は妻にそう声をかけずにはいられなかった。
酸いも甘いも噛み分け、長年、妻と共に歩み続けてきたこの小さな町に。
桜の花が咲き始めるまで、あと一ヶ月。
妻は、桜の花が好きだった。
儚くも気高く咲き誇るその花を心から愛していた。
市街地から離れた、少しばかり不便な場所にあるこの家を買ったのも「窓から桜の木が見たい」という妻の要望を優先した為だ。
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