決戦 桶狭間(後編)

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 信長の拒絶が、現実のものとなった瞬間、吉兆の美麗な頬に(ひび)が入った。  予め、これあるを覚悟していてさえ(むご)い苦痛が襲って来た。何も心の準備が出来ていなかったら、どれ程の衝撃を受けただろうか。 「取りっ……」  吉兆は、取り次ぎを、と言うべき所で声を詰まらせた。  今一度、あの場面を垣間見なければならないのは、耐えられそうにない。  この後、見張り番が情に(ほだ)されて奥へ取り次ぎ、信長がそれでも会わぬと断言するのを見通してしまうのである。  代わりに、吉兆は見張り番の理解出来ない独り言を口走り始めた。 「私は、雪解けたこの穏やかで優しい時間が少しでも長く続くなら、見守るだけでいいと思ってしまいました。見守るだけでいいと言われたことを言い訳にして、お守りするのではなく、守られることに馴れようとしてしまいました……」  悔し涙が溢れそうになる。 「そんな惰弱な吉兆を、信長様が真の危難を前に必要とする訳がない……」  それは、信長が聞いていれば、いやそっちの意味での拒絶じゃないと慌て出しそうな結論である。  吉兆の瞳に初め小さな、そして次第に燃え上がる炎が灯った。 「お退きなさい」  凛とした声で発した言葉は、一歩を踏み出す宣言だった。
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