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お台所で夕餉の支度をしている私の鼻を、梅の香りがくすぐりました。
外と繋がる木枠の窓の方から漂っているようでした。
御側御用人を務められる高柳のお屋敷には1本の梅の木があって、冬の外気に春の匂いが混じるころ、それはひっそりと見事な花を咲かせます。
その梅の木からの匂いだと思いました。
私はそのお屋敷の女中をしています。
16の時からですから、もうかれこれ20年近くになります。
口数は少ないですが、高柳家のことは何でも知っております。
知っているからこそ、お庭に咲く梅の木が蕾を膨らまし甘い匂いをまとわせながらその身を開かせるその側で、旦那様とお沙代さんが瞳を交わされるお姿が、梅の香と一緒に心に流れ込むのです。
そして、私の胸を締め付けるのでした。
旦那様が旦那様になられる前、丁度元服を終え義孝様になられた頃でした。
お家柄もお人柄も申し分ない将来を期待された評判のご子息であられました。見た目こそ美男ではありませんでしたが、りりしさを醸し出した目元と口元に好感をもてる品がありました。
その日も実直な義孝様は、毎日欠かすことのない剣の修練をされておいででした。
お沙代さんは、その日初めて高柳家に女中としてやってきたのです。
15歳になったばかりの何も知らない少女でした。
2枚しかない着物を持ってこのお屋敷の門を叩いたのです。
お沙代さんは門兵に裏口に行くように指示をされ、お屋敷の裏に回されました。
そして、小さい入り口に足を踏み入れて直ぐに、お沙代さんの周りを甘い匂いが包み込みました。
花の匂いでした。これから両親の元から離れ新しい環境の中で暮らす、どこか不安な面持ちでいたお沙代さんの気持ちを僅かばかりほっこりさせてくる香りに、思わず足を止め、その香がする方に頭を傾けたのです。
そこには、生まれて初めて目にする立派なお庭がありました。その隅の方で、花をつけた梅の木が1本、静かにたたずんでいました。
それは満開ではありませんでしたが、彼女の心を優しくするには充分でした。
そして、お沙代さんは冷たい空気の中に暖かい日が差し込むように、笑みを漏らしたのでした。
梅の香りに包まれたお沙世さんが微笑みを顔に浮かばせた横顔に、心を奪われた若者がおりました。
そうです。若様である、義孝さまでした。
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